ふと振り返ると辛いことや大変なことがあったけど、このサイパンに滞在していた13年間は比較的私にとっては素晴らしい日々だった。所属している会社自体が比較的優良企業なのでその分、苦労しなかったという感もある。ただ、いつでも何かが違うと感じていた。会社に関しても特に問題なく、順調というか普通に昇進もし、それなりに社内、社外での人間関係も問題なかった。というよりとてもよかった。家族も子どもたちは元気に育ち成績も悪くない。客観的に見ても幸せな人生に見える。確かに給料がもっと上がって欲しいとかいい車が欲しいとか言い出したらきりがないがそれによって大きく左右するほどのことではなく、本質的な部分では幸せな生活を送って来た。ただ、その中でも何か引っかかるものが常にあった。心の奥底で「これでいいのか?」と問いかけるもう一人の自分がいた。それはやはり私の両親のことだった。既に年老いた両親は二人で日本で暮らしている。私ときたらその両親をほったらかして海外でのんきに生活をしてる。海外での生活、社会的地位、良好な人間関係におぼれてしまっていた。
今までのんきに生活してきた分、新年に対する想いはあまりなかったが今年は今年の目標、人生の目標を定めて生活を転換していきたいと感じている。今年の、いや、今年からの人生のテーマは「家族」だ。どんな社会においてもある最低単位社会集団として『家族』がテーマである。この最低単位の『家族』という集団をまず納められなければその上のどんな集団・グループを納めることは不可能である。現在の私の家族は私と妻と娘と息子と姪っ子の5人家族である。この社会集団に今年は私の両親を含めたいと強く望んでいる。私の現在の社会的地位も何もすべてを捨ててまでも私の『家族』を納めていこうと思う。家も小さい、お金もない、地位もない、何もないけどでもしっかりと家族が一つになってお互いを支えながら生きていけるような家庭を作っていきたい。今、どこの国や社会を見ても何か人間関係が希薄で、通常の人間関係と家族という人間関係もあまり境が無いような状態になっている。何かに感動したり、涙したり、苦しんだり、でもやっぱり生きていこうとか人生の喜びなどは存在しない社会に生きているように思える。どの時代にも少し歳とった人たちは若い連中を見て「俺達の若いころは、、、、」なんて嘆く事が多いが、最近はそれ以上に人間としての根幹のにかかわる何かが欠落しているように思える。それは想いやりだったり、やさしさだったり、中にはそんなもの必要ないTという人がいるかもしれないけれど、本当はそれが必要なのにまるで必要のないような社会や価値観を作り上げてしまったその時代の人たちの理想でしかないわけで、人間は感じ、考え、反応する、それも各自がそれぞれの価値観をもつわけだから相手を思いやる気持ちがないと社会は成り立たないと思う。
色々と書いてみたがやはり私がうちの子供達にはもっと人間らしく生きてほしいからそれを私自身が実践して教えていきたいと思う。親を敬い、大切にする。簡単なようで簡単ではないこのような生き方をしっかりと一歩一歩進んでいきたい。例えどんなに辛い道だとしも。
2010年1月1日 元日
Friday, December 31, 2010
2011年 新年への想い
Saturday, May 2, 2009
給食
小学校へ入学したのは昭和45年だった。
小学校自体は家から20分以上も歩いて通った。埼玉県和光市という今でこそかなり都会になったと聞いているが、私の小学校時代はあの辺はまだ畑が続く光景ばかりの場所だった。私の住む団地(和光南大和団地)の裏手にはモモテハイツという米軍の駐留地が広がり高いフェンスとその上に通る4本のバラセン(薔薇線?)の向こうにはアメリカそのものが広がっていた。後から知ったことだが私の親がしきりに言っていた極東放送(FEN)というラジオはその区域から発せられたものだったらしい。
生活や将来の不安も何もない小学校の生活は快適そのものだった。
団地に住んでいた私は家の周りで遊ぶメンバーも学校のクラスメートもほぼ同一であり、あらゆる面で気心知れている友達との生活の延長に学校生活もあった。つまり今から考えてみると私生活と学校生活の境があまり見当たらなかった気がする。逆に言うと勉強も遊びも境がない、どちらかというとあまりまじめな生徒ではなかったのかもしれない。
学校生活で楽しみのひとつは給食。クラスでの朝礼を終えて、1時間目、2時間目、3時間目あたりになると廊下をつたって給食の匂いがしてくる。私の通っていた学校は鉄筋コンクリート4階建て?の校舎で1階には大きなキッチンがあった。中に入ったことはないが外から大きな釜が見えていたがあれで料理をしていたらしい。あの釜は小学生の小僧にとってはとてつもなく大きな釜だった。あの大きな釜で何人分の生徒の給食を作っていたのだろう?1学年に6組位だったから全校生徒で1800名か??やはりすごい!
そう考えると給食を作るのも一苦労だが、ひとクラス50名位に給仕する小学生の給食当番にとっては一大イベントだった。50人分の食パンと50人分のスープの入ったズンドウ、50人分のおかず、50人分の牛乳、そしてデザート。これらを手際よく給食当番の人たちが用意し、クラス全員に公平に給仕する。ちなみに私の小学校では給食当番の人はおかわりができるという特典付きだったため、男子生徒なら誰もが希望してやりたがる人気のある仕事だった。ただ、あの白い割烹着(かっぽうぎ)姿は決してかっこいいものではなかった。
あの給食というのは良く出来たシステムだと思う。あの給食のおかげで普段家では食べられないものを食べることが出来た。といっても別段、給食でとびっきり美味しいものが出されるとか、家ではろくでもないものしか出なかったというわけではない。例えば、うちの家庭では中華料理が出ることはなかった。中華料理、特に『酢豚』は今まで家で見たことも食べたこともなかった。つまり私が生まれてこの方、酢豚なるものを食べたことない訳だ。
どうしてか?
うちの父は山形生まれで育ちの田舎者で焼き魚とおしんこ、味噌汁ぐらいしか食べたことのない人間だった。で、母親はと言うと神田生まれの神田育ちで祖父も新しい物好きの人間だったから色々なものも食べているし、結婚する前に一生懸命お料理学校にも通って、愛する父の為に料理の腕を磨いた。或る日、母が酢豚を作って父の帰りを待った。母はとろみのついた食事が好きだったから母の好物だったに違いない。人間は自分勝手だから自分が好きなもは他の人も好きに違いないと錯覚することが多い。ただこの酢豚なるものを食べるのは父とっては初めてのことだった。一口食べた父が「何だ!この料理は・・・」と言ったきり、母は二度と酢豚を作ることはなかったという我が家の伝説がある。そのおかげで私自身は酢豚なるものを食べたことがなく、その当時は「バーミヤン」もないから手軽に酢豚などを食べる機会もなかったわけ。
そんな状況において給食に酢豚のちょっと変形した野菜よりとろみが多い料理があり、その美味しいこと。父の意に沿って比較的あっさりした食事が多かった我が家の料理とは違う!!こんな料理があったは・・・・。それから思い出深いのは鯨の竜田揚げが硬くて食べ難いのなんのって。から揚げ、って言うのは見た目でわかったが食べてみるとあの黒々とした肉。最初のうちはそれが鯨だとは知らずに食べてたが、後から鯨だと聞いて鯨の肉は鯨のベーコンぐらいにしておこうと思った。このように給食は普段家庭では食べない食事を食べたりと教育過程で必要な食事のバリエーションを教えてくれる。
さらに食事のバリエーションを教えてくれるだけではなく、いかに限られたメニューの中で工夫して美味しく食べるかを考えさせる。
例えばビニールに入ったうどんが出てくるとそれに合わせてスープっぽいカレーが出てきて、そのスープにうどんを入れて食べたりと楽しみのランチを更に楽しくするために子供ながらに工夫をした。毎日出てくる食パンだっていつもマーガリンを付けるだけじゃ面白くないと、おかずをサンドイッチにして食べてみたり、子供ながらに残さずに食べる工夫をした思い出がある。
ただし、残念ながらバリエーションも工夫もあのアルマイトと呼ばれる食器では美味しく食べるという基本的な部分で大いにマイナスだったように思える。多分、耐久性などが中心にあの素材が選ばれたのだとは思うが、やはり味気ない感じがする。長年使っているせいでボコボコにへこんだり、傷がついたり、黒ずんでいたりして、出来るだけ自分のところには綺麗な食器が来ないかと期待してたが、そんな切実な思いをしているッところへボロボロのアルマイトのスープボールとかが回ってくると隣のクラスメートの綺麗なスープボールと見比べて心から恨めしく思えた。それと諸兄もご存知だと思うが、あのスプーンともフォークともいえないあの不思議なスプーン(やはりスプーンか?)。あれだったら、家から箸を持ってこさせればいいのではないかと思うが、どうだろう?確かあのスプーンを給食で使っているので箸をちゃんと使えるこどもが減ったと騒いだ人がいたが、わからないでもない。あのスプーンはどう考えても優れものとは思えない。あのお陰でお箸をきちんと使える子供たちが減ったとしたらさらに良くない。
今の給食をグーグルで検索してみたが、グラタンなど大幅に私の頃のメニューとは変わってちゃんとお箸で食べるようになっているようです。こうやって懐かしむ諸兄も多いようで昔の学校給食のメニューをセットで販売する商売もあるそうで・・・・今度日本に帰ったときに試してみようかとも思いますが、さすがにアルマイトの食器はないだろうな~。
投稿者
Ichiro Shirata / 白田一郎
場所
5:07 AM
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ラベル: 小学校 アルマイト 先割れスプーン
Sunday, April 12, 2009
電話ボックスの思い出
会社で働く若い社員達は我慢をするということがないように思える。別に我慢が美しいと昔ながらの日本的な風習を美化するわけではないが、あまりにも我慢がないように思える。新聞の3面記事には「ついカッとなって・・・」「目つきが気に入らなかった・・・」「むしゃくしゃしてたから・・・」という理由にもならない理由で人を殺してしまったりする輩(やから)が後を絶たない。さいきんの若い社員をみていると同様に「気に入らない・・・」とか「こんな仕事するつもりで入社したわけじゃない・・・」とか「だったら辞めろよ」なんて言うと「じゃ、辞めます」とあっさり言われてしまい、少なからずこちらも動揺したりする。この辺の人間関係に対するの今と昔が会社での上下関係を大きく左右して、更に若者は社会への失望を強めていく。
最近は街中を歩いていて公衆電話ボックスを見かけることはメッキリなくなった。
私の子供の頃の電話ボックスは全体がベージュで半分より上が四方ガラス窓になった細長いボックスで屋根が、注意を引くためか赤く塗られていた。更に出入り口のドアの取っ手の代わり丸い穴が開いておりその周りに黒いゴムをはめ込んだ何の洒落気もないただのボックスだった。その後、全面ガラス張りの今風の電話ボックスが現れ、ドアも凝った作りなのはいいが、開け難くて仕方なかった。2,3人で一緒に入ろうとするとあの折りたたみのドアの使いにくさを恨みさえしたのを覚えている。
自分自身が恋に目覚める年頃だったせいか、あの公衆電話ボックスは、あれはあれなりに色々な思い出の場面場面で重要な場面の背景として登場し、ドラマチックな演出をしていたような感がある。というか恋をしているとその人と少しでも一緒にいたい、一緒に話したいという欲求から電話という『文明の利器』が何と有難かったことか。さらにそれを利用できる個室があるなんて、3分10円は何というバーゲンプライスなことか!
寒い日などタバコの臭いを主とした何ともいえない臭いが漂う電話ボックスの中で足元に直撃する寒い北風を避けながら電話のうえに十円玉を載せて彼女に長電話をかけた思い出がある。あの闇の中にたたずむ電話ボックスの有様はなんとも切ないような哀愁を感じるのは私だけだろうか?
今は本当に携帯電話というとてつもなく便利なものが出来てしまったお陰で電話における男と女のラブストーリーは時代とともに様変わりしてしまったが、あの頃は電話をするとしても彼女の自宅に電話するか、バイト先に電話するかで、彼女が出るときもあれば、親が出るとき、上司が出るとき、全くでないときという様々なパターンが想定できそれなりの対応を電話のプッシュボタンを押しながら呼び出し音が鳴る数回の間に瞬時に想定パターンを考えるというとっさの対応という訓練の場であったのではないだろうか。例えば、彼女の自宅に電話をして在宅している彼女のお父さんが突然電話に出た時の動揺とパニック状態の中からどんな話し方をしたら好青年のイメージを与えられるか?声のトーンは?声が上ずっていないだろうか?というペンティアムでさえ一瞬のうちに処理できない対応方を迫られるあの瞬間に大くの諸兄たちも鍛えられ、今になって上司から突然の質問にもきちんと対応できる下地をあの公衆電話で培ったのではないだろうか?それからあの留守番電話の録音テープが陽気な彼女の声だけ流れて、いきなり「ピッー」と鳴ったりしたときは携帯電話の「電波の届かない場所・・・」というような録音とはまったく違った無念さと傷心からどのような辛い社会環境にも対応しうる根性を培ったのではあるまいか?
あの狭い中でガラスに寄りかかりその無念さを支えてくれた電話ボックス。何も言わずそっと包み込んでくれるあの味のある電話ボックスが消えつつあるのは何か惜しい気がするが、時がいつまでも止まってくれと思うのは歳をとったせいだろうか?
投稿者
Ichiro Shirata / 白田一郎
場所
12:02 AM
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ラベル: 公衆電話 ボックス 恋 携帯
