心構えはしていたつもりだが、先立って飲んでたビールの酔いも手伝って父の電話には非常に動揺した。あの気丈な父が電話の向こうで声を詰まられて話していたのにはショックだった。「お母さんが調子が悪そうで食事もしないし、みんなに会いたがってる」とたぶん言っていたのだと思う。冬の寒い家の中で父が電話を握りしめて話している様子が思い浮かんだ。季節はその人々の状況で大きく変わる。冬と聞くと済んだ青空と身の引き締まる寒さを想像もできるが老人二人が肩寄せ合っている冬の寒さは想像をはるかに上回って物悲しい想像をかきたてる。そんな冬という背景設定を思い浮かべながら母の状況を考えるといてもたってもいられない気持ちだった。すぐに翌朝の日本に気のフライトをインターネットで検索、予約を入れ準備をすぐさまに完了した。それからは翌日から数日間既に入っていた予定を確認しつつ同僚に仕事を振り分けて準備を整えた。
頭の中は母の具合はもちろんのこと、それを見守る父の精神的な重圧だった。両親が住む住宅供給公社の集合住宅に越して来て早35年が経つ。あの頃は比較的若い夫婦が住む集合住宅も今では知っている人たちも既に全戸数40戸の半数になり、そのほとんどが両親と同じ70歳以上の高齢者でこちらが何かを頼んで手伝ってもらうような状況ではない。そんな状況ではうちの両親が何か困ったことがあったとしても頼れる人はいないことになる。本当に家の近くに親戚でも住んでいればいいが、結局そんな都合のいい話もないし誰かが面倒をみる必要になる。改めてこのような現実に直面すると本当に日本における高齢化社会の問題点が今後大きく日本社会・経済を左右するように思える。高度成長時代多くの人たちが田舎を後にして都会に職を求めて出て来た。その人たちがマイホームと呼ばれる1戸建て、若しくは集合住宅、マンション等を購入して自分たちの場所を確保し子供を育てた人たちが現在は子供達も既に成人し、それぞれの家族をもって親とは離れた独自の生活をしている。それが現代のライフスタイルとみんなが錯覚してその方向へ進んできたが、やはり何かに支障が出てきているような気がする。人と人とのつながりが薄れ、頼る人がいなくなり、次第に孤立していく。それにより現在の社会では高齢者たちが寂しく生活をし、ひどい時には孤独に一人アパートやマンションの一室で死んでいく。こんな状況を見ているとやりきれない想いで一杯になる。
自分自身も自分は自分、親は親と考えていたが、やはり何かが違うと気が付いた。うちの家族はキリスト教で家族の大切さ等を口にする。特に私の妻はフィリピン人で私から見ると異常と思えるぐらい家族本位の価値観をもっている。ただ、その家族本位の価値観はそれはまるで昭和初期までの日本の家族そのものである。今回、現在の仕事も辞め親の為に同居を決意したのは一般的には無謀であり子供達にとって貧乏な生活を強いることになり親としては何んとも心苦しいところはあるが、このことをが彼らの人間としての生き方の一つの糧となることは確かだと思う。日頃、子供達には人の痛みを理解できる人間になって欲しいと思っているが、年老いた祖父や祖母、親を思いやる気持ちを持ってほしいと切に願う。
私自身ももう少し早く親の為に帰国すればよかったと思う。何かあったらすぐに帰国してと常々思っていたがやはりそれではすべてが後手後手に回って遅すぎた。ただ、今は早く帰国して両親と毎日顔を合わせて話をしたり、食事をしたりしたいと思うばかりです。
Saturday, January 29, 2011
後悔後に立たず
Friday, December 31, 2010
2011年 新年への想い
ふと振り返ると辛いことや大変なことがあったけど、このサイパンに滞在していた13年間は比較的私にとっては素晴らしい日々だった。所属している会社自体が比較的優良企業なのでその分、苦労しなかったという感もある。ただ、いつでも何かが違うと感じていた。会社に関しても特に問題なく、順調というか普通に昇進もし、それなりに社内、社外での人間関係も問題なかった。というよりとてもよかった。家族も子どもたちは元気に育ち成績も悪くない。客観的に見ても幸せな人生に見える。確かに給料がもっと上がって欲しいとかいい車が欲しいとか言い出したらきりがないがそれによって大きく左右するほどのことではなく、本質的な部分では幸せな生活を送って来た。ただ、その中でも何か引っかかるものが常にあった。心の奥底で「これでいいのか?」と問いかけるもう一人の自分がいた。それはやはり私の両親のことだった。既に年老いた両親は二人で日本で暮らしている。私ときたらその両親をほったらかして海外でのんきに生活をしてる。海外での生活、社会的地位、良好な人間関係におぼれてしまっていた。
今までのんきに生活してきた分、新年に対する想いはあまりなかったが今年は今年の目標、人生の目標を定めて生活を転換していきたいと感じている。今年の、いや、今年からの人生のテーマは「家族」だ。どんな社会においてもある最低単位社会集団として『家族』がテーマである。この最低単位の『家族』という集団をまず納められなければその上のどんな集団・グループを納めることは不可能である。現在の私の家族は私と妻と娘と息子と姪っ子の5人家族である。この社会集団に今年は私の両親を含めたいと強く望んでいる。私の現在の社会的地位も何もすべてを捨ててまでも私の『家族』を納めていこうと思う。家も小さい、お金もない、地位もない、何もないけどでもしっかりと家族が一つになってお互いを支えながら生きていけるような家庭を作っていきたい。今、どこの国や社会を見ても何か人間関係が希薄で、通常の人間関係と家族という人間関係もあまり境が無いような状態になっている。何かに感動したり、涙したり、苦しんだり、でもやっぱり生きていこうとか人生の喜びなどは存在しない社会に生きているように思える。どの時代にも少し歳とった人たちは若い連中を見て「俺達の若いころは、、、、」なんて嘆く事が多いが、最近はそれ以上に人間としての根幹のにかかわる何かが欠落しているように思える。それは想いやりだったり、やさしさだったり、中にはそんなもの必要ないTという人がいるかもしれないけれど、本当はそれが必要なのにまるで必要のないような社会や価値観を作り上げてしまったその時代の人たちの理想でしかないわけで、人間は感じ、考え、反応する、それも各自がそれぞれの価値観をもつわけだから相手を思いやる気持ちがないと社会は成り立たないと思う。
色々と書いてみたがやはり私がうちの子供達にはもっと人間らしく生きてほしいからそれを私自身が実践して教えていきたいと思う。親を敬い、大切にする。簡単なようで簡単ではないこのような生き方をしっかりと一歩一歩進んでいきたい。例えどんなに辛い道だとしも。
2010年1月1日 元日
Saturday, May 2, 2009
給食
小学校へ入学したのは昭和45年だった。
小学校自体は家から20分以上も歩いて通った。埼玉県和光市という今でこそかなり都会になったと聞いているが、私の小学校時代はあの辺はまだ畑が続く光景ばかりの場所だった。私の住む団地(和光南大和団地)の裏手にはモモテハイツという米軍の駐留地が広がり高いフェンスとその上に通る4本のバラセン(薔薇線?)の向こうにはアメリカそのものが広がっていた。後から知ったことだが私の親がしきりに言っていた極東放送(FEN)というラジオはその区域から発せられたものだったらしい。
生活や将来の不安も何もない小学校の生活は快適そのものだった。
団地に住んでいた私は家の周りで遊ぶメンバーも学校のクラスメートもほぼ同一であり、あらゆる面で気心知れている友達との生活の延長に学校生活もあった。つまり今から考えてみると私生活と学校生活の境があまり見当たらなかった気がする。逆に言うと勉強も遊びも境がない、どちらかというとあまりまじめな生徒ではなかったのかもしれない。
学校生活で楽しみのひとつは給食。クラスでの朝礼を終えて、1時間目、2時間目、3時間目あたりになると廊下をつたって給食の匂いがしてくる。私の通っていた学校は鉄筋コンクリート4階建て?の校舎で1階には大きなキッチンがあった。中に入ったことはないが外から大きな釜が見えていたがあれで料理をしていたらしい。あの釜は小学生の小僧にとってはとてつもなく大きな釜だった。あの大きな釜で何人分の生徒の給食を作っていたのだろう?1学年に6組位だったから全校生徒で1800名か??やはりすごい!
そう考えると給食を作るのも一苦労だが、ひとクラス50名位に給仕する小学生の給食当番にとっては一大イベントだった。50人分の食パンと50人分のスープの入ったズンドウ、50人分のおかず、50人分の牛乳、そしてデザート。これらを手際よく給食当番の人たちが用意し、クラス全員に公平に給仕する。ちなみに私の小学校では給食当番の人はおかわりができるという特典付きだったため、男子生徒なら誰もが希望してやりたがる人気のある仕事だった。ただ、あの白い割烹着(かっぽうぎ)姿は決してかっこいいものではなかった。
あの給食というのは良く出来たシステムだと思う。あの給食のおかげで普段家では食べられないものを食べることが出来た。といっても別段、給食でとびっきり美味しいものが出されるとか、家ではろくでもないものしか出なかったというわけではない。例えば、うちの家庭では中華料理が出ることはなかった。中華料理、特に『酢豚』は今まで家で見たことも食べたこともなかった。つまり私が生まれてこの方、酢豚なるものを食べたことない訳だ。
どうしてか?
うちの父は山形生まれで育ちの田舎者で焼き魚とおしんこ、味噌汁ぐらいしか食べたことのない人間だった。で、母親はと言うと神田生まれの神田育ちで祖父も新しい物好きの人間だったから色々なものも食べているし、結婚する前に一生懸命お料理学校にも通って、愛する父の為に料理の腕を磨いた。或る日、母が酢豚を作って父の帰りを待った。母はとろみのついた食事が好きだったから母の好物だったに違いない。人間は自分勝手だから自分が好きなもは他の人も好きに違いないと錯覚することが多い。ただこの酢豚なるものを食べるのは父とっては初めてのことだった。一口食べた父が「何だ!この料理は・・・」と言ったきり、母は二度と酢豚を作ることはなかったという我が家の伝説がある。そのおかげで私自身は酢豚なるものを食べたことがなく、その当時は「バーミヤン」もないから手軽に酢豚などを食べる機会もなかったわけ。
そんな状況において給食に酢豚のちょっと変形した野菜よりとろみが多い料理があり、その美味しいこと。父の意に沿って比較的あっさりした食事が多かった我が家の料理とは違う!!こんな料理があったは・・・・。それから思い出深いのは鯨の竜田揚げが硬くて食べ難いのなんのって。から揚げ、って言うのは見た目でわかったが食べてみるとあの黒々とした肉。最初のうちはそれが鯨だとは知らずに食べてたが、後から鯨だと聞いて鯨の肉は鯨のベーコンぐらいにしておこうと思った。このように給食は普段家庭では食べない食事を食べたりと教育過程で必要な食事のバリエーションを教えてくれる。
さらに食事のバリエーションを教えてくれるだけではなく、いかに限られたメニューの中で工夫して美味しく食べるかを考えさせる。
例えばビニールに入ったうどんが出てくるとそれに合わせてスープっぽいカレーが出てきて、そのスープにうどんを入れて食べたりと楽しみのランチを更に楽しくするために子供ながらに工夫をした。毎日出てくる食パンだっていつもマーガリンを付けるだけじゃ面白くないと、おかずをサンドイッチにして食べてみたり、子供ながらに残さずに食べる工夫をした思い出がある。
ただし、残念ながらバリエーションも工夫もあのアルマイトと呼ばれる食器では美味しく食べるという基本的な部分で大いにマイナスだったように思える。多分、耐久性などが中心にあの素材が選ばれたのだとは思うが、やはり味気ない感じがする。長年使っているせいでボコボコにへこんだり、傷がついたり、黒ずんでいたりして、出来るだけ自分のところには綺麗な食器が来ないかと期待してたが、そんな切実な思いをしているッところへボロボロのアルマイトのスープボールとかが回ってくると隣のクラスメートの綺麗なスープボールと見比べて心から恨めしく思えた。それと諸兄もご存知だと思うが、あのスプーンともフォークともいえないあの不思議なスプーン(やはりスプーンか?)。あれだったら、家から箸を持ってこさせればいいのではないかと思うが、どうだろう?確かあのスプーンを給食で使っているので箸をちゃんと使えるこどもが減ったと騒いだ人がいたが、わからないでもない。あのスプーンはどう考えても優れものとは思えない。あのお陰でお箸をきちんと使える子供たちが減ったとしたらさらに良くない。
今の給食をグーグルで検索してみたが、グラタンなど大幅に私の頃のメニューとは変わってちゃんとお箸で食べるようになっているようです。こうやって懐かしむ諸兄も多いようで昔の学校給食のメニューをセットで販売する商売もあるそうで・・・・今度日本に帰ったときに試してみようかとも思いますが、さすがにアルマイトの食器はないだろうな~。
投稿者
Ichiro Shirata / 白田一郎
場所
5:07 AM
0
コメント
ラベル: 小学校 アルマイト 先割れスプーン
