会社で働く若い社員達は我慢をするということがないように思える。別に我慢が美しいと昔ながらの日本的な風習を美化するわけではないが、あまりにも我慢がないように思える。新聞の3面記事には「ついカッとなって・・・」「目つきが気に入らなかった・・・」「むしゃくしゃしてたから・・・」という理由にもならない理由で人を殺してしまったりする輩(やから)が後を絶たない。さいきんの若い社員をみていると同様に「気に入らない・・・」とか「こんな仕事するつもりで入社したわけじゃない・・・」とか「だったら辞めろよ」なんて言うと「じゃ、辞めます」とあっさり言われてしまい、少なからずこちらも動揺したりする。この辺の人間関係に対するの今と昔が会社での上下関係を大きく左右して、更に若者は社会への失望を強めていく。
最近は街中を歩いていて公衆電話ボックスを見かけることはメッキリなくなった。
私の子供の頃の電話ボックスは全体がベージュで半分より上が四方ガラス窓になった細長いボックスで屋根が、注意を引くためか赤く塗られていた。更に出入り口のドアの取っ手の代わり丸い穴が開いておりその周りに黒いゴムをはめ込んだ何の洒落気もないただのボックスだった。その後、全面ガラス張りの今風の電話ボックスが現れ、ドアも凝った作りなのはいいが、開け難くて仕方なかった。2,3人で一緒に入ろうとするとあの折りたたみのドアの使いにくさを恨みさえしたのを覚えている。
自分自身が恋に目覚める年頃だったせいか、あの公衆電話ボックスは、あれはあれなりに色々な思い出の場面場面で重要な場面の背景として登場し、ドラマチックな演出をしていたような感がある。というか恋をしているとその人と少しでも一緒にいたい、一緒に話したいという欲求から電話という『文明の利器』が何と有難かったことか。さらにそれを利用できる個室があるなんて、3分10円は何というバーゲンプライスなことか!
寒い日などタバコの臭いを主とした何ともいえない臭いが漂う電話ボックスの中で足元に直撃する寒い北風を避けながら電話のうえに十円玉を載せて彼女に長電話をかけた思い出がある。あの闇の中にたたずむ電話ボックスの有様はなんとも切ないような哀愁を感じるのは私だけだろうか?
今は本当に携帯電話というとてつもなく便利なものが出来てしまったお陰で電話における男と女のラブストーリーは時代とともに様変わりしてしまったが、あの頃は電話をするとしても彼女の自宅に電話するか、バイト先に電話するかで、彼女が出るときもあれば、親が出るとき、上司が出るとき、全くでないときという様々なパターンが想定できそれなりの対応を電話のプッシュボタンを押しながら呼び出し音が鳴る数回の間に瞬時に想定パターンを考えるというとっさの対応という訓練の場であったのではないだろうか。例えば、彼女の自宅に電話をして在宅している彼女のお父さんが突然電話に出た時の動揺とパニック状態の中からどんな話し方をしたら好青年のイメージを与えられるか?声のトーンは?声が上ずっていないだろうか?というペンティアムでさえ一瞬のうちに処理できない対応方を迫られるあの瞬間に大くの諸兄たちも鍛えられ、今になって上司から突然の質問にもきちんと対応できる下地をあの公衆電話で培ったのではないだろうか?それからあの留守番電話の録音テープが陽気な彼女の声だけ流れて、いきなり「ピッー」と鳴ったりしたときは携帯電話の「電波の届かない場所・・・」というような録音とはまったく違った無念さと傷心からどのような辛い社会環境にも対応しうる根性を培ったのではあるまいか?
あの狭い中でガラスに寄りかかりその無念さを支えてくれた電話ボックス。何も言わずそっと包み込んでくれるあの味のある電話ボックスが消えつつあるのは何か惜しい気がするが、時がいつまでも止まってくれと思うのは歳をとったせいだろうか?
Sunday, April 12, 2009
電話ボックスの思い出
投稿者
Ichiro Shirata / 白田一郎
場所
12:02 AM
0
コメント
ラベル: 公衆電話 ボックス 恋 携帯
Wednesday, March 11, 2009
ロス暴動
1991年4月29日月曜日。 何てことない普通の週の始まりだった。カレッジでの授業をを終え、夕方家に戻ってきてテキストを眺めながらその日にいわゆる「ロドニーキング事件」というスピード違反をした黒人を大勢の白人警官がこん棒や懐中電灯で捕まえたフリーウェイ脇で殴る蹴るの暴力を近くに住む住民がビデオで撮影しており、それが全米で公開され大騒ぎになった。その騒ぎで4人の警察官が起訴され、4月29日にその判決が下されることになっていた。テレビを見始めたときには既に無罪が発表されていた。 ただ問題はこのあとだった。 この判決を不服とした黒人たちが暴徒と化してまずはロスアンジェルス・ダウンタウンのどこかのビルを襲撃を皮切りに多くの黒人たちがあらゆるビルを襲撃し始めた。白人、黒人の人種差別の溝は十分理解していたのでこんなこともあるだろうと思っていたし、法で世の中を押さえ込む米国だから、警察などが鎮圧するだろうと、さほど気にしていなかった。 夕方になり食事の準備をしながらテレビを見ているとチョッパー(ヘリコプター)からの撮影された映像がテレビに映し出されていた。大きなトレーラーが信号待ちしているところに黒人たちがそのトレーラーを襲撃し、白人の運転手を引きずり下ろし暴行を加えているのである。その交差点の周りの店では暴行を加えようとする黒人たちと白人を助けようとする黒人たちが右往左往しているのが映っている。場所を聞くと自分が住んでいる場所とダウンタウンのちょうど中間辺りで少しだけ不安が高ぶるをの覚えたが、それはそれでテレビに映る遠い出来事という印象だけで、その晩はそれだけのことだった。 翌日も何も気にすることなく朝からカレッジへ行き授業を受けていた。確か、お昼をキャンパスの芝生の上で終えて友達とたわいもない話をしていたところ、キャンパスを駆け回る事務員が大声で「すぐに家に帰れ!」「サウスセントラルLAじゃ、大変なことが起こってる!!」そんな注意を聞いて、そういえば、昨日の黒人たちの暴動はどうなっているのかと思い出した。ロス自体はごく平らな街なのでそこにいるだけはあまり遠くを見渡すことができないが、駐車場から車でキャンパスの外へ出ようとしたら道は既にロスアンジェルス中の会社や学校から帰宅する車で大渋滞で通常5分で帰れる道のりを40分もかかって家にたどり着いたのを覚えている。帰宅途中の車の中から見えたのはダウンタウンから南の方向に黒い煙が何本も立ち上り、ラジオでは緊急放送ですぐに帰宅し、家から出ないように呼びかけていた、いわゆる外出禁止令である。その時やっと、テレビの映像と現実が一致して自分に迫る危機を理解できた感じがした。それまではテレビの映像はあくまでもテレビの映像であり、身近なものには捕らえることができなかったが、あの立ち上る何本もの黒煙を見ながら帰る家路は恐怖そのものであった。帰った後はまずは家から出れないことを想定して食材がどの程度あるか確認し、テレビを見ながらジッとしてるしかなかった。いつまでこの暴動が続いたのかよく覚えてないが、日本では味わうことの出来ない経験のひとつだった。特にこのロス暴動で主役となったのが韓国人経営のストアーが黒人居住区にあったので襲撃の対象となり、黒人と韓国人の溝がいっそう深まった事件だった。白人や黒人などからしたら日本人だろうが、韓国人だろうが、中国人だろうがどれも同じに見えるわけで、そうなると自分に降りかかるだろう危険は非常に大きいもので、全く人ごとじゃないわけです。テレビを見ると韓国人のストアー店主が銃を構えて黒人に対して連射している。後から知ったことだがこの時代にアメリカに住む韓国人たちはベトナム戦争帰りで戦争に参加したが代償にアメリカ居住を許された人たちが多かったそうだ。それもそのはず、銃の撃ち方がさまになっていた。黒人と韓国人との溝はその辺からスタートしているらしく、今まで黒人地区で経営されてたストアーなどをベトナム帰りの韓国人たちが取って代わり、単純労働をとして働いた黒人たちから半分の賃金で働くヒスパニック系の人間を雇用しはじめた頃から溝が深まっていった。本来ロドニーキング事件から黒人の怒りの対象だった白人から、さらに韓国人へと拡大していった部分からアメリカ自体に根深い人種問題を考えさせられた出来事だった。
Saturday, November 29, 2008
西海岸の美術館めぐり
ビバリーヒルズというイメージがあるけどよーく調べてみると有名な美術館などがあるのには驚いた。学校のない夏休みにお金もなくどこへもいけない時があり、家でぶらぶらしているのを知ったLAで事業をしていたA子さんがロスアンジェルス近郊にある美術館の基本情報を収集する仕事をまわしてきた。私自身芸術には興味だけはあったので暇に任せて点在する美術館めぐりをしてみた。そうしてみたら広大な敷地を持ったすばらしい美術館が沢山あるのには驚いた。それもその美術館は誰か美術品を収集してた人が美術館として開館したという大金持ちの趣味で集めた美術品を展示しているという日本とはスケールの違う何かを感じた瞬間でもありました。
c) Lisa Chu
ロスアンジェルスというと輝く太陽、パームツリー、ビーチ、ハリウッド、
ポールゲッティー・ミュージアム(その当時はマリブのみ)
ハンティントン・ライブラリー
ロスアンジェルス・カウンティー・ミュージアム・オブ・アート
ノートン・サイモン・ミュージアム
ロスアンジェルス・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート
アメリカに住んでいると、この辺の美術館で期間限定で行っている展示会に関しては新聞の日曜版にその情報のすべてが掲載されているので日曜版を活用してその週の計画を立てるといっても過言ではありません。私の場合は、美術館めぐりもそうですが、新作映画の封切や各地で行っているイベントなどもこの日曜版を元に計画をしていました。ご存知の方も多いかと思いますが、アメリカの日曜日の新聞は電話帳ぐらい分厚い読み応えのあるものです。半分はストアーの広告ですが、そのほかにその地域で1週間あるイベント情報やセールのお知らせ、映画情報など盛りだくさんの情報を掲載した別冊があり、それを見れば何処で何があるかすぐにわかります。ですから日曜日の朝はこの盛りだくさん情報の新聞を買い、サンタモニカあたりのレストランに行って深いローストのコーヒーを飲みながら朝食をゆっくり食べて、その1週間をどう過ごすか、さらに次の週末の計画を立てたりするの常でした。
今から考えると、何と優雅な生活を送っていたことでしょうか!?アメリカに住んでいた時の時間の使い方は本当に余裕があり、今までの人生の中で精神的に非常に充実してた時期だったと思います。
そしてその週末には各美術館や博物館、さらにはロスアンジェルスからI-5(インターステイツ5号線)というフリーウェイで南に行くとラグーナビーチという場所があり、そのには数々のアートギャラリーがあり有名無名のアーティスト達の作品が販売されており週末は近郊都市から賑わっていました。ギャラリーを見て回り、疲れたらエスプレッソを飲みながらはるかかなたまで続く太平洋を眺めながらアメリカンアートの話を繰り広げたりするわけです。
あんな生活を再び送れるのは・・・・いつでしょうか??
