Saturday, May 11, 2013

グリフィス天文台

初めてグリフィス天文台に行ったのはシアトルからロスに移り住み始めて数日後だったと記憶している。まだアパート探したり、初めてのLAをツーリスト気分で走り回っていた時だった。シアトルからはレンタカーで友人と一緒にレンタカーに荷物を積んで引越しをした。確かレンタカーはLAで乗り捨てという形だったと思う。アメリカはやはり車社会だからこのへんあらゆるニーズに対応してくれる。荷物が多ければ牽引車も貸してくれたりして車での移動が簡単にできる。さて、シアトルからLAへの珍道中に関してはまた次回の楽しみにして、グリフィス天文台だ。あの天文台をLAに行ったときに知っていたわけではない。ただ、行ってみて驚いた。実は昔から良く知っていたのだ。あなたも多分同じだと思う。それもそのはず、あの天文台とその山に向かう道は数々の映画の撮影で利用されていて、私がまずは身を寄せていたダウンタウンの西側からウィルシャーブルバードからハリウッドを抜けてグリフィス天文台の入り口の緑に囲まれた公園のような場所を抜けて気持ちいい道を走り抜けていくと、、、、『あれ?どこかで見たことある・・・以前来たことあるかなァ』という感じだった。来たこともないのに見たことある風景・・・。どこかで見たな、、、この場所。そうだ!Back to the future!で使われたトンネルだ!という具合で何かの映画でよく見る場所がそこここにある。天文台についてさらに驚き!ここがグリフィス天文台なのかと思う位、とても見慣れた場所だった。車を駐車して歩いているとジェームスディーンの上半身の銅像を見つけた。そして「理由なき反抗」」のあの有名なカーチェイスの撮影場所だ等ことも知った。映画で見たいろいろな風景がまさしく目の前にある、、、映画の中の遠くの存在、映画の中の空想の存在というが一気に身近になった瞬間だった。

ロスアンジェルスでの生活は人生の中でもとても印象の深い場所だ。

Friday, May 10, 2013

国際化を問う

国際化が叫ばれ始めてどのくらいが経つのだろう。少なくとも私が大学を卒業してから26年が経つがあの頃から日本では国際化の必要性が叫ばれてた。確かにインターネットが普及し、世界を駆け巡る為の航空運賃も大幅に下がりあらゆる意味での世界への窓は大きく開け放たれた感はあるが、根本的な部分で日本の国際化は進んでいない。久しぶりに日本に帰って来て思うのは、やはり日本は日本ということ。日本人の枠にはまらないと日本の社会では生きていけない。例えば国際化を意識して帰国子女などを受け入れる体制が整っているのは確かだが、果たしてそれが本当の意味での帰国子女受け入れ態勢だろうか?入学に関して優位とか考慮という意味では良いかもしれないが、入ってからは特に帰国子女に対しての特別なプログラムがある訳でもなく結局は同じだったりする。その部分では国際基督教大学高校は多くの帰国子女を受け入れているということもあるだろうが、その高校生活で日本語のレベルによってクラス分けをして対応してる。帰国子女と言うと英語が話せる日本人の子供たちと思いがちだが、英語や他の国の言葉は話せても海外生活が長すぎて日本語が十分でない、ましては日本語が全くと言っていいほど出来ない子供たちもいたりする。その子供たちに普通に日本語の話せるレベルで授業を受けさせても決して学問にはならない。単に学校に通っているだけになってしまう。日本ではその学校に入る、学校に通うだけが重要視される為、入学後のプログラムが文部省の言いなりのようなものになって、それさえこなせば子供たちが勉強できようが出来なかろうが関係ないような状況になってしまう。教員の苦労もわかるが、やはり日本語にハンデがある子供達のフォローをする体制ぐらいは必要だと思う。

日本は全くもって日本人しかいない単一の民族が海に囲まれた島にかたまっており、海外の動きや海外の全く違う考え方に慣れていない。もっともっとみんなが世界に触れ日本人の考え方、外国人達の考え方、自分たちの考えが本当に正しいのか、適切なのか、あらゆる方面から日本人という自分を客観的に考察できる人が育ってほしい。

Saturday, September 15, 2012

高齢化社会へようこそ  1年たって その2

うちの母親の状態が大きく変化したのもさることながら、やはり日本に帰国して一番心配していた子供達の日本の生活への適応度だった。確かに周囲の方々は日本人の父親を持つので多少日本語が話せるだろうと思う人も多かったが、母の力は偉大である。小さいときに1日中母親の影響は大きく、日本語を話さないうちの奥さんでは子供たちに日本語が伝わることはなかった。成長課程で母親の影響は絶大である。子供の時からもう少し日本語で接するなり、しておけばこんなことにもならなかったのだろうが、日本に帰ることになるとは全く持って想像してなかったから仕方がない。こうなるなら多少何とかしておけば良かったと思うが後の祭りである。
このように英語での生活を生まれた時からし続けて突然日本に戻って、それもいきなり普通の公立学校に放り込まれたうちの子供達の気持ちを考えると私も強引過ぎたとは思うが、それ以外方法も、お金もなかった。なんと言っても5月29日の夜に帰国して6月1日には普通に制服を着て学校に行ったのだから、、、、。私も6月1日は会社に初出社の日だったから子供達を学校に送ることもできずに奥さんに送って行ってもらった。もちろん6月1日だったから1学期の途中での転校なので学校では普通の授業が行われ、宿題だってちゃんともらってきた。そんなバタバタの日本の生活が始まって、まず会社から早く帰って、さっと食事をしてその後は子供達の宿題を見てやる日々が続いた。社会や理科などは英語での説明はよく知らない単語が多くかなり苦労した。ただ、子供達の苦労に比べたら大したことないとは思うがかなり時間をかけて宿題を終わらせて、あとは毎日の感じの練習と国語の教科書の音読み。そんな生活をしながら気づいたことが彼らの日本語のレベルは日に日にどんどん上がって行く。彼らなりに漢字の書き取りをしたり、声を出して国語の本を1日1回は読んだり、日本の漫画を見ながら辞書で意味を調べたり、確かに作文などはまだまだだけど、立派なものだと感心する。ベッドの横には1日の目標が書いてある。
1.音読
2.漢字練習
3.作文
等々、、、
中学生時代の自分の生活を重ね合わせる、、、言葉が出ないのとグッと来るものがある。

そんな毎日を過ごしながら1年でよくここまでの日本語のレベルに達したと思う。彼らはまだまだこれから高校受験があり、大学受験があり、苦労は絶えないかと思うが、ここできちんと日本語をマスターすれば彼らにとってとても大きな人生における糧となると思う。
最近では日本の子供同様、塾に行くと言い出して、私は大いに驚かされた。そんなことまでしなくても、、、と言ったのだが少なくても国語だけは行きたいと切望する息子に私は何も言えず、入塾書にハンコを押し、口座引き落としの書類をいつもより丁寧に書き終えた。

これがわが子か?と思う、、、塾に行ったことない私は思う。私も周りのクラスメートのように塾へ行っていたら人生変わっていただろうか、、、

Friday, August 31, 2012

昭和の街角  コマーシャルの想い出

まだ小学生だった私には何か良くわからない衝撃的なCMだった。 今から考えると小さい時に見たCMをいつまでも覚えているよう気がする。どんなCMだったかよく覚えてないがオートバイの750CCが出た頃だと思うが、「ナナハンと呼んでください」というフレーズが今でも頭から離れない。多分、それは石井いさみ著の「ナナハンライダー」に出てくるHONDA Dream 750Fという名車のCMだったのではないかと思う。その他にもTDKの山下達郎の「Ride on Time」を起用したものや、NISSANケンメリスカイラインのCMなど数々の心に残る作品がある。最近はそんなCMもYoutubeなどで探せば見つかる物もあり、便利な世の中だとつくづく思う。昔だったらテレビのCM特集などを楽しみにして観ていたが、今では自分が好きな時間に探せるのだからついつい酒を飲み過ぎながら夜更かしをしてしまう。 このCMも特に印象に強いのと主人公を演じた松田優作という稀にみる個性的な俳優が主演を演じた映画のCMだったということもある。この映画は角川映画が大ヒットした「犬神家の一族」の後に望んだ第二作品という意気込みもあった。CMは切ないピアノと「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」という松田優作の朗読から始まり、ジョー山中の英語訳の歌詞が続く、、、これは何のCMなんだ?という興味を引く演出で構成されたCMは当時の誰もが口ずさんだものだ。最近のCMは変に気をてらったものが多いが、うちの子供達が大きくなった時にどんなCMを覚えているだろうか。

人間の証明 角川映画

                 帽子   
                               西条八十

 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。 母さん、あれは好きな帽子でしたよ、 僕はあのときずいぶんくやしかった、 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。 母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、 紺の脚絆に手甲をした。 そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。 けれど、とうとう駄目だった、 なにしろ深い谷で、それに草が 背たけぐらい伸びていたんですもの。 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう? そのとき傍らに咲いていた車百合の花は もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、 秋には、灰色の霧があの丘をこめ、 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。 母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、 あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、 昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、 その裏に僕が書いた Y.S という頭文字を 埋めるように、静かに、寂しく。

Wednesday, July 25, 2012

昭和の街角  街の映画ポスター

子供の頃、街を歩いているといろいろなものがあった。今だって色々なものがたくさんあって目を楽しませてくれるがあの映画のポスターほど楽しいものはない。映画のポスターが駅の近くとかに貼ってあるのはよくわかる。その近くに映画館とかあってそこで上映しているものを宣伝している。でもうちは駅からも遠いし、映画館が近くにあるわけでもない。でもなぜかあの交差点の国道に面した木の塀に打ち付けられた雨に濡れないようにちょっとだけひさしの付いたボードに映画のポスターは貼られていた。 ポスターは定期的に変更された。通常2つのポスターが貼られていてどちらも有名な映画のポスターがはられているのは見たこともない。いつも貼られているのは成人映画のポスターだった。もちろん成人映画、いわゆるポルノ映画だからそのポスターはそれなりに中学生ぐらいの年齢の男の子の目を釘付けにする。あのころはそんなポスターを見るだけでもドキドキするぐらいだからかわいいものだ。ポスターはなぜかいつまでも貼られていた。ボロボロになって「そろそろかな」と思うといつの間にか新しいポスターに張り替えられている。しかし、あのポスターはすごい。本当にすごい。何気なく普通の通りに貼られているだけなのに通ると必ず見てしまう、、、俺がただ助平なだけか?いや、あれはこの近所の誰もが通るたびに見ている、、、そして次の新作を楽しみに毎日毎日通っていたに違いない。あのポスターを見るだけでいろいろなことを想像する。通りがけにちらっと見るだけでわくわくするのにそれから想像を膨らますのだからあのポスターの宣伝広告効果は計り知れないものがある。 ただ、あのポスターを見たからと行って成人映画を見に行くことはなかった、、、もちろん未成年だったからということもあるが、たとえ大人でも見には行かなかっただろう。ポスターから想像するだけで十分でチケットの購入まではたどり着かない。ふっと考えるとその宣伝効果は本物だろうかと考える。何をもってすばらしい広告と言えるのだろう?? そんなことを考えながらあの交差点を通りかかる、、、ポスターが貼られた交差点の角の家はもう取り壊されて時間貸しの駐車場になっている。あの塀があったころは見通しの悪い交差点だったが、今は比較的視界がいい。ただ、あのポスターがあった時は信号が点滅していたらすぐに止まったが、今はかなり強引に渡ってしまおうとする。ポスターはもっと広告効果のほかにもっと違った効果をもたらしていたのかもしれない。

Saturday, June 16, 2012

高齢化社会へようこそ  1年たって その1

日本に帰ってきてあっという間に1年が過ぎてしまった。 2011年5月29日のフライトで降り立った成田空港は台風のようなひどい雨だった。当初はバスで帰ろうかとも思っていたが家族5人(当時は)で大きな箱が11個を抱えての帰国だったから空港から実家まで片道レンタカーを頼んでおいてそれは正解だった。 あれから1年。子供たちも日本の生活に慣れ、日本語もかなり話せるようになった。うちの奥さんも週1回は日本語教室に通ったりしてそれなりに日本の生活に慣れようと努力してる。今後のために日本の運転免許もとったりしてしているので、車を購入するとさらに行動範囲が広まり楽しくなるだろう。 帰ってきたときにはまだ起き上がったり食事をしたりしてた母は昨年の夏に肺炎になって入院してからは寝たきりの生活となってしまった。もともと脳梗塞を患ったことがあり、その影響か寝たきりになるのはあっという間の出来事だった。今まで日本はいろいろな面できちんとしていると思っていたが、あの母親が肺炎で高熱が出て救急車を呼んだ時は何とも自分の母国日本に対する買い被りに呆れた。救急車が早く来てくれて、母を救急車に乗せこむまではいいが、そっから先が大変だった。受け入れ先の病院が見つからないのだ。例え熱だけだといっても79歳にもなる老人の高熱はやはり危険を感じる。救急車を呼んだのは夜の11時過ぎだったが真夜中になろうとしている時間まで救急隊は電話で受け入れ先を探している。 理由はいろいろあった。「病院のベットがいっぱい」「当直の先生がいっぱいいっぱい」「緊急処置室まであふれてる」最後の最後になんとか個室が空いているのでとりあえず連れてきてくださいという病院にたどり着いた。緊急隊員のリストにはたくさんの病院、それも緊急受け入れ可能の病院があったようだが、実際に受け入れをしてくれるとこは少ないようだ。物理的に不可能はわかるが、母以上に緊急を要する患者の受けれがこのような状況だと本当に困る。報道でよく医者不足や緊急対応が不可能という話題をよく見るが実際にその立場になると改善が本当に必要だということを実感する。 そんなこんなで夜中の街を救急車で駆け抜けて病院にたどり着いたが、さらにそこで医者と看護婦がバタバタとしてようやく落ち着いたのは1時が過ぎていた。母はレントゲンを確認したところ肺炎と判断され、それに合った薬をうたれて熱も下がり落ち着いた。一通りの入院の手続きを済ませ、夜中なので病院から用意してくださいというものもそろえられないのでその日はとりあえず落ち着いた母を確認してから家に帰った。 それからの3ヶ月はそれなりに大変だった。父はいくら夕方といっても夏の暑い時期にバスに乗り継いで病院に通った。土曜、日曜日は私が担当して病院に通った。1ヵ月が過ぎて流石に父も疲れたのか平日でも行かない日が出てきたので私が会社帰りにできるだけ曜日を決めていくようにした。母の肺炎は何とか快方に向かい11月には退院ができそうな兆しが出てきた。ただ、肺炎の原因となった誤嚥はそのままだったので胃に直接栄養剤を流し込む為の胃瘻を作るか、その時のしていた鼻からチューブを胃に直接入れて栄養剤を流し込む方法のどちらかで過ごす必要があった。母の場合は以前に胃の半分以上を摘出しているため、胃瘻を設けることができず、鼻からのチューブで栄養と薬を入れ込む方法で過ごすことになった。ただ、これに関してはやはり通常が看護婦がやるような作業だが家に連れて帰ると決めていた父は医者の指示通り、父と私の妻が病院に3週間通い栄養剤の与え方や、おしめの替え方、痰のとり方など一通りの実地授業を受けて11月に無事家に戻ってきた。 家に帰ってからは介護保険を使い、朝晩に1回ずつ下の世話や体を拭いたり、口の清掃をしたりするヘルパーさんが来てくれて父と私の奥さんの手間を軽減してくれるようにケアマネージャーがすべてアレンジをしてくれた。鼻からチューブを入れているので衛生面に関してとても慎重に対処しなくてはならず、毎週1回は看護婦さんが様子を見に来ることになった。鼻からのチューブはやはりボケた頭の母にとっても邪魔だとみえて、帰ってきて二日目ぐらいにいきなり朝引き抜いてしまってあわてて看護婦さんを呼んだりした。何度かそんなチューブ引き抜き事件があってからは母の引き抜きも落ち着いて多少抜くぐらいだと父がゆっくりとチューブを入れ直したりたりするようになった。最近分かったことだが、この鼻からチューブでの栄養剤注入というのはとても危険が伴うようでこの状態の患者を一時的に預かってくれるところはないそうだ。胃瘻でも厳しいらしく、鼻からのチューブの患者の一時預かりは皆無だそうだ。それだけ大変なことをうちの奥さんが文句も言わず毎日こなしているというのは頭が下がる、、というか全く持って頭が上がらない。

Sunday, March 20, 2011

これからのグローバリゼーション

社会や経済がどのように変化していくものか誰も想像がつかないが、今、日本社会はグローバル単位での動きに進んでいる。
私が卒業した1988年は今の日本経済からは想像がつかないほどの好景気で日本経済は『神話』伝説が語られるほどの時代であった。その時代日本固有の企業体制とも言える学校卒業後、一生同じ会社に勤め上げる家族的な会社、終身雇用が日本経済発展の秘訣であると全世界で騒がれた時代だった。それがバブル崩壊後一気にその様相を変えてしまった。
私は大学卒業後、そんな中でも今後の社会を生きていくためには英語がまず必要である、更に国際性の感覚を身につけるべきと遅ればせながら思い立ち獨協卒業後に一人渡米し、英語の勉強に励むのと同時に海外の人たちの日本人とは違った物の見方、習慣の違い等様々な事を学び、やはり彼らとコミュニケーションをとる事によって知り得る事が大きなそれ以降の糧となった。
アメリカの大学と日本の大学との大きな違いはそれぞれの社会を反映するビジネスに対する考え方だと思った。日本の場合、経済学なり、経営なり理論的な考察からスタートするが、アメリカの場合はまずは現在起こりうるビジネスモデルの考案やアイデアを今まで勉強した経済なり社会の仕組み、更には日常から分析したマーケティングをベースに取り組ませたりする。今でも忘れない最初の経営のクラスで二人一組になってキャンパス内で可能と思われるビジネスモデルを考案せよというプロジェクトがあった。例えばスナックスタンドの運営とか通学用のタクシーを運営するとか、自分が起業するとしたらまずはキャンパス内で何ができるか!?ということだった。通常90分のクラスでは収まらず翌週の授業に持ち越されたがそのテ―マ自体がより具体性を導き何を勉強したらよいかの詳細を生み出す。漠然とした理論で社会や経済を説明、理論づけるよりもより具体的なテーマを追求してそれに付帯する必要事項を勉強し、研究する方法がアメリカでの勉強の仕方だった。そのような発想で勉強を進めることができるのはやはりアメリカ自体が比較的簡単にビジネスを立ち上げることが可能で、後は本人のやる気次第でこのアメリカで行き抜き成功するかしないかが決まる。
さて、話を元に戻すが日本固有の終身雇用形態から一気に転職が当たり前、更には期間雇用促進など全く逆の方向へとその後雇用形態が変化し始め、「リストラ」などという言葉がどの媒体でも飛び交い、会社への忠誠心だけで生き延びていた人たちが実力主義へとシフトするなかで働き盛りだろうが、なんだろうが仕事ができない人間は冷たく切り捨てられる弱肉強食の世の中へ変貌を遂げる中、私も海外の現地企業で今まで自分が培った英語力とあらゆる国の人たちと友好的に関係を構築する技を駆使し生きて来た。今までは日本資本の企業というのは日本からの出向社員がマネージメント上層部を構成し現地で採用された人間はそれなりのレベルで留まるしかない時代だったが、日本経済のおかれたシビアな環境と日本本社に依存しない現地独立採算型のビジネスモデルがより日本から出向社員の配置より現地採用スタッフの育成という流れに変わり、現地社員が本社の世界戦略に参画するという会社全体がグローバリゼーションの流れに沿った経営構造に変革を遂げようとしている。
例えば我が社で言うと、今まではあらゆるビジネストランスアクションに関しては本社を介して行われることが基本とされていたが、現在では情報共有が根底にあるものの海外に散らばる在外グループ会社同士が直接ビジネスを行い、そのグループ会社である優位性を生かしビジネスを進めグローバリゼーションを推進し、現地主導という形態となっている。

企業のグローバリゼーションは決して各々の会社の方針でそうなっているわけではなく海外で営業展開してその経営安定の活路を見出す上で海外での慣習や事情に合わせた経営を進める必要があり、今以上に企業単位から個人単位への価値観の移行などが大きな要素にもなっている。日本から来た出向社員が日本の基準で在外の会社を運営していこうとした場合どうしても現地スタッフとの摩擦が発生してしまう。企業が高圧的に社員を操作できた時代では問題ないがそんな事は通用しない時代に入った今、海外であらゆる人種や習慣に柔軟に対応、思考ができる英語だけ話せるというだけでない本当の意味での「国際人」が今後世界の中の1つとして海外で営業展開するにしても、日本国内で外国人をマーケットにするにしてもいずれにせよ企業単位、個人単位での国際化がより必要とされる。大学での4年間というのはそういう意味では世界を感じる為にとてもいい時期だと思う。例え旅行でもいいし、出来たら1カ月のホームステイプログラムに参加するならなお更いいと思う。自分自身を日本以外のどこか世界の一部においてみて私たちの母国、日本を見つめ直してみるといいと思う。最近では幅広い層の人たちがこぞって英会話学校に通って多少なりとも英語に親しみをもつ人たちは増えてきてはいるものの、英語自体は単なるコミュニケーションの道具でしかなく、本当に必要なのはその道具を使って自分の為に何を得るかという事だと思う。インターネットやTV、雑誌などの媒体で世界のあらゆる情報が入って来て世界は狭まり、まるで自分が何でもよく知っているような気になっているかもしれないがそれはただ単に情報であり、それを自分自身の英語力、世界観によって自分の仕事や人生に活かせるように世界に飛び出して今後の日本経済を支える人材となって欲しい。

Saturday, January 29, 2011

後悔後に立たず

心構えはしていたつもりだが、先立って飲んでたビールの酔いも手伝って父の電話には非常に動揺した。あの気丈な父が電話の向こうで声を詰まられて話していたのにはショックだった。「お母さんが調子が悪そうで食事もしないし、みんなに会いたがってる」とたぶん言っていたのだと思う。冬の寒い家の中で父が電話を握りしめて話している様子が思い浮かんだ。季節はその人々の状況で大きく変わる。冬と聞くと済んだ青空と身の引き締まる寒さを想像もできるが老人二人が肩寄せ合っている冬の寒さは想像をはるかに上回って物悲しい想像をかきたてる。そんな冬という背景設定を思い浮かべながら母の状況を考えるといてもたってもいられない気持ちだった。すぐに翌朝の日本に気のフライトをインターネットで検索、予約を入れ準備をすぐさまに完了した。それからは翌日から数日間既に入っていた予定を確認しつつ同僚に仕事を振り分けて準備を整えた。
頭の中は母の具合はもちろんのこと、それを見守る父の精神的な重圧だった。両親が住む住宅供給公社の集合住宅に越して来て早35年が経つ。あの頃は比較的若い夫婦が住む集合住宅も今では知っている人たちも既に全戸数40戸の半数になり、そのほとんどが両親と同じ70歳以上の高齢者でこちらが何かを頼んで手伝ってもらうような状況ではない。そんな状況ではうちの両親が何か困ったことがあったとしても頼れる人はいないことになる。本当に家の近くに親戚でも住んでいればいいが、結局そんな都合のいい話もないし誰かが面倒をみる必要になる。改めてこのような現実に直面すると本当に日本における高齢化社会の問題点が今後大きく日本社会・経済を左右するように思える。高度成長時代多くの人たちが田舎を後にして都会に職を求めて出て来た。その人たちがマイホームと呼ばれる1戸建て、若しくは集合住宅、マンション等を購入して自分たちの場所を確保し子供を育てた人たちが現在は子供達も既に成人し、それぞれの家族をもって親とは離れた独自の生活をしている。それが現代のライフスタイルとみんなが錯覚してその方向へ進んできたが、やはり何かに支障が出てきているような気がする。人と人とのつながりが薄れ、頼る人がいなくなり、次第に孤立していく。それにより現在の社会では高齢者たちが寂しく生活をし、ひどい時には孤独に一人アパートやマンションの一室で死んでいく。こんな状況を見ているとやりきれない想いで一杯になる。
自分自身も自分は自分、親は親と考えていたが、やはり何かが違うと気が付いた。うちの家族はキリスト教で家族の大切さ等を口にする。特に私の妻はフィリピン人で私から見ると異常と思えるぐらい家族本位の価値観をもっている。ただ、その家族本位の価値観はそれはまるで昭和初期までの日本の家族そのものである。今回、現在の仕事も辞め親の為に同居を決意したのは一般的には無謀であり子供達にとって貧乏な生活を強いることになり親としては何んとも心苦しいところはあるが、このことをが彼らの人間としての生き方の一つの糧となることは確かだと思う。日頃、子供達には人の痛みを理解できる人間になって欲しいと思っているが、年老いた祖父や祖母、親を思いやる気持ちを持ってほしいと切に願う。
私自身ももう少し早く親の為に帰国すればよかったと思う。何かあったらすぐに帰国してと常々思っていたがやはりそれではすべてが後手後手に回って遅すぎた。ただ、今は早く帰国して両親と毎日顔を合わせて話をしたり、食事をしたりしたいと思うばかりです。

Friday, December 31, 2010

2011年 新年への想い

ふと振り返ると辛いことや大変なことがあったけど、このサイパンに滞在していた13年間は比較的私にとっては素晴らしい日々だった。所属している会社自体が比較的優良企業なのでその分、苦労しなかったという感もある。ただ、いつでも何かが違うと感じていた。会社に関しても特に問題なく、順調というか普通に昇進もし、それなりに社内、社外での人間関係も問題なかった。というよりとてもよかった。家族も子どもたちは元気に育ち成績も悪くない。客観的に見ても幸せな人生に見える。確かに給料がもっと上がって欲しいとかいい車が欲しいとか言い出したらきりがないがそれによって大きく左右するほどのことではなく、本質的な部分では幸せな生活を送って来た。ただ、その中でも何か引っかかるものが常にあった。心の奥底で「これでいいのか?」と問いかけるもう一人の自分がいた。それはやはり私の両親のことだった。既に年老いた両親は二人で日本で暮らしている。私ときたらその両親をほったらかして海外でのんきに生活をしてる。海外での生活、社会的地位、良好な人間関係におぼれてしまっていた。

今までのんきに生活してきた分、新年に対する想いはあまりなかったが今年は今年の目標、人生の目標を定めて生活を転換していきたいと感じている。今年の、いや、今年からの人生のテーマは「家族」だ。どんな社会においてもある最低単位社会集団として『家族』がテーマである。この最低単位の『家族』という集団をまず納められなければその上のどんな集団・グループを納めることは不可能である。現在の私の家族は私と妻と娘と息子と姪っ子の5人家族である。この社会集団に今年は私の両親を含めたいと強く望んでいる。私の現在の社会的地位も何もすべてを捨ててまでも私の『家族』を納めていこうと思う。家も小さい、お金もない、地位もない、何もないけどでもしっかりと家族が一つになってお互いを支えながら生きていけるような家庭を作っていきたい。今、どこの国や社会を見ても何か人間関係が希薄で、通常の人間関係と家族という人間関係もあまり境が無いような状態になっている。何かに感動したり、涙したり、苦しんだり、でもやっぱり生きていこうとか人生の喜びなどは存在しない社会に生きているように思える。どの時代にも少し歳とった人たちは若い連中を見て「俺達の若いころは、、、、」なんて嘆く事が多いが、最近はそれ以上に人間としての根幹のにかかわる何かが欠落しているように思える。それは想いやりだったり、やさしさだったり、中にはそんなもの必要ないTという人がいるかもしれないけれど、本当はそれが必要なのにまるで必要のないような社会や価値観を作り上げてしまったその時代の人たちの理想でしかないわけで、人間は感じ、考え、反応する、それも各自がそれぞれの価値観をもつわけだから相手を思いやる気持ちがないと社会は成り立たないと思う。

色々と書いてみたがやはり私がうちの子供達にはもっと人間らしく生きてほしいからそれを私自身が実践して教えていきたいと思う。親を敬い、大切にする。簡単なようで簡単ではないこのような生き方をしっかりと一歩一歩進んでいきたい。例えどんなに辛い道だとしも。

2010年1月1日 元日

Saturday, May 2, 2009

給食

小学校へ入学したのは昭和45年だった。
小学校自体は家から20分以上も歩いて通った。埼玉県和光市という今でこそかなり都会になったと聞いているが、私の小学校時代はあの辺はまだ畑が続く光景ばかりの場所だった。私の住む団地(和光南大和団地)の裏手にはモモテハイツという米軍の駐留地が広がり高いフェンスとその上に通る4本のバラセン(薔薇線?)の向こうにはアメリカそのものが広がっていた。後から知ったことだが私の親がしきりに言っていた極東放送(FEN)というラジオはその区域から発せられたものだったらしい。

生活や将来の不安も何もない小学校の生活は快適そのものだった。
団地に住んでいた私は家の周りで遊ぶメンバーも学校のクラスメートもほぼ同一であり、あらゆる面で気心知れている友達との生活の延長に学校生活もあった。つまり今から考えてみると私生活と学校生活の境があまり見当たらなかった気がする。逆に言うと勉強も遊びも境がない、どちらかというとあまりまじめな生徒ではなかったのかもしれない。
学校生活で楽しみのひとつは給食。クラスでの朝礼を終えて、1時間目、2時間目、3時間目あたりになると廊下をつたって給食の匂いがしてくる。私の通っていた学校は鉄筋コンクリート4階建て?の校舎で1階には大きなキッチンがあった。中に入ったことはないが外から大きな釜が見えていたがあれで料理をしていたらしい。あの釜は小学生の小僧にとってはとてつもなく大きな釜だった。あの大きな釜で何人分の生徒の給食を作っていたのだろう?1学年に6組位だったから全校生徒で1800名か??やはりすごい!
そう考えると給食を作るのも一苦労だが、ひとクラス50名位に給仕する小学生の給食当番にとっては一大イベントだった。50人分の食パンと50人分のスープの入ったズンドウ、50人分のおかず、50人分の牛乳、そしてデザート。これらを手際よく給食当番の人たちが用意し、クラス全員に公平に給仕する。ちなみに私の小学校では給食当番の人はおかわりができるという特典付きだったため、男子生徒なら誰もが希望してやりたがる人気のある仕事だった。ただ、あの白い割烹着(かっぽうぎ)姿は決してかっこいいものではなかった。

あの給食というのは良く出来たシステムだと思う。あの給食のおかげで普段家では食べられないものを食べることが出来た。といっても別段、給食でとびっきり美味しいものが出されるとか、家ではろくでもないものしか出なかったというわけではない。例えば、うちの家庭では中華料理が出ることはなかった。中華料理、特に『酢豚』は今まで家で見たことも食べたこともなかった。つまり私が生まれてこの方、酢豚なるものを食べたことない訳だ。

どうしてか?

うちの父は山形生まれで育ちの田舎者で焼き魚とおしんこ、味噌汁ぐらいしか食べたことのない人間だった。で、母親はと言うと神田生まれの神田育ちで祖父も新しい物好きの人間だったから色々なものも食べているし、結婚する前に一生懸命お料理学校にも通って、愛する父の為に料理の腕を磨いた。或る日、母が酢豚を作って父の帰りを待った。母はとろみのついた食事が好きだったから母の好物だったに違いない。人間は自分勝手だから自分が好きなもは他の人も好きに違いないと錯覚することが多い。ただこの酢豚なるものを食べるのは父とっては初めてのことだった。一口食べた父が「何だ!この料理は・・・」と言ったきり、母は二度と酢豚を作ることはなかったという我が家の伝説がある。そのおかげで私自身は酢豚なるものを食べたことがなく、その当時は「バーミヤン」もないから手軽に酢豚などを食べる機会もなかったわけ。
そんな状況において給食に酢豚のちょっと変形した野菜よりとろみが多い料理があり、その美味しいこと。父の意に沿って比較的あっさりした食事が多かった我が家の料理とは違う!!こんな料理があったは・・・・。それから思い出深いのは鯨の竜田揚げが硬くて食べ難いのなんのって。から揚げ、って言うのは見た目でわかったが食べてみるとあの黒々とした肉。最初のうちはそれが鯨だとは知らずに食べてたが、後から鯨だと聞いて鯨の肉は鯨のベーコンぐらいにしておこうと思った。このように給食は普段家庭では食べない食事を食べたりと教育過程で必要な食事のバリエーションを教えてくれる。
さらに食事のバリエーションを教えてくれるだけではなく、いかに限られたメニューの中で工夫して美味しく食べるかを考えさせる。
例えばビニールに入ったうどんが出てくるとそれに合わせてスープっぽいカレーが出てきて、そのスープにうどんを入れて食べたりと楽しみのランチを更に楽しくするために子供ながらに工夫をした。毎日出てくる食パンだっていつもマーガリンを付けるだけじゃ面白くないと、おかずをサンドイッチにして食べてみたり、子供ながらに残さずに食べる工夫をした思い出がある。
ただし、残念ながらバリエーションも工夫もあのアルマイトと呼ばれる食器では美味しく食べるという基本的な部分で大いにマイナスだったように思える。多分、耐久性などが中心にあの素材が選ばれたのだとは思うが、やはり味気ない感じがする。長年使っているせいでボコボコにへこんだり、傷がついたり、黒ずんでいたりして、出来るだけ自分のところには綺麗な食器が来ないかと期待してたが、そんな切実な思いをしているッところへボロボロのアルマイトのスープボールとかが回ってくると隣のクラスメートの綺麗なスープボールと見比べて心から恨めしく思えた。それと諸兄もご存知だと思うが、あのスプーンともフォークともいえないあの不思議なスプーン(やはりスプーンか?)。あれだったら、家から箸を持ってこさせればいいのではないかと思うが、どうだろう?確かあのスプーンを給食で使っているので箸をちゃんと使えるこどもが減ったと騒いだ人がいたが、わからないでもない。あのスプーンはどう考えても優れものとは思えない。あのお陰でお箸をきちんと使える子供たちが減ったとしたらさらに良くない。

今の給食をグーグルで検索してみたが、グラタンなど大幅に私の頃のメニューとは変わってちゃんとお箸で食べるようになっているようです。こうやって懐かしむ諸兄も多いようで昔の学校給食のメニューをセットで販売する商売もあるそうで・・・・今度日本に帰ったときに試してみようかとも思いますが、さすがにアルマイトの食器はないだろうな~。

Sunday, April 12, 2009

電話ボックスの思い出

会社で働く若い社員達は我慢をするということがないように思える。別に我慢が美しいと昔ながらの日本的な風習を美化するわけではないが、あまりにも我慢がないように思える。新聞の3面記事には「ついカッとなって・・・」「目つきが気に入らなかった・・・」「むしゃくしゃしてたから・・・」という理由にもならない理由で人を殺してしまったりする輩(やから)が後を絶たない。さいきんの若い社員をみていると同様に「気に入らない・・・」とか「こんな仕事するつもりで入社したわけじゃない・・・」とか「だったら辞めろよ」なんて言うと「じゃ、辞めます」とあっさり言われてしまい、少なからずこちらも動揺したりする。この辺の人間関係に対するの今と昔が会社での上下関係を大きく左右して、更に若者は社会への失望を強めていく。



最近は街中を歩いていて公衆電話ボックスを見かけることはメッキリなくなった。
私の子供の頃の電話ボックスは全体がベージュで半分より上が四方ガラス窓になった細長いボックスで屋根が、注意を引くためか赤く塗られていた。更に出入り口のドアの取っ手の代わり丸い穴が開いておりその周りに黒いゴムをはめ込んだ何の洒落気もないただのボックスだった。その後、全面ガラス張りの今風の電話ボックスが現れ、ドアも凝った作りなのはいいが、開け難くて仕方なかった。2,3人で一緒に入ろうとするとあの折りたたみのドアの使いにくさを恨みさえしたのを覚えている。
自分自身が恋に目覚める年頃だったせいか、あの公衆電話ボックスは、あれはあれなりに色々な思い出の場面場面で重要な場面の背景として登場し、ドラマチックな演出をしていたような感がある。というか恋をしているとその人と少しでも一緒にいたい、一緒に話したいという欲求から電話という『文明の利器』が何と有難かったことか。さらにそれを利用できる個室があるなんて、3分10円は何というバーゲンプライスなことか!
寒い日などタバコの臭いを主とした何ともいえない臭いが漂う電話ボックスの中で足元に直撃する寒い北風を避けながら電話のうえに十円玉を載せて彼女に長電話をかけた思い出がある。あの闇の中にたたずむ電話ボックスの有様はなんとも切ないような哀愁を感じるのは私だけだろうか?



今は本当に携帯電話というとてつもなく便利なものが出来てしまったお陰で電話における男と女のラブストーリーは時代とともに様変わりしてしまったが、あの頃は電話をするとしても彼女の自宅に電話するか、バイト先に電話するかで、彼女が出るときもあれば、親が出るとき、上司が出るとき、全くでないときという様々なパターンが想定できそれなりの対応を電話のプッシュボタンを押しながら呼び出し音が鳴る数回の間に瞬時に想定パターンを考えるというとっさの対応という訓練の場であったのではないだろうか。例えば、彼女の自宅に電話をして在宅している彼女のお父さんが突然電話に出た時の動揺とパニック状態の中からどんな話し方をしたら好青年のイメージを与えられるか?声のトーンは?声が上ずっていないだろうか?というペンティアムでさえ一瞬のうちに処理できない対応方を迫られるあの瞬間に大くの諸兄たちも鍛えられ、今になって上司から突然の質問にもきちんと対応できる下地をあの公衆電話で培ったのではないだろうか?それからあの留守番電話の録音テープが陽気な彼女の声だけ流れて、いきなり「ピッー」と鳴ったりしたときは携帯電話の「電波の届かない場所・・・」というような録音とはまったく違った無念さと傷心からどのような辛い社会環境にも対応しうる根性を培ったのではあるまいか?
あの狭い中でガラスに寄りかかりその無念さを支えてくれた電話ボックス。何も言わずそっと包み込んでくれるあの味のある電話ボックスが消えつつあるのは何か惜しい気がするが、時がいつまでも止まってくれと思うのは歳をとったせいだろうか?

Wednesday, March 11, 2009

ロス暴動

1991年4月29日月曜日。 何てことない普通の週の始まりだった。カレッジでの授業をを終え、夕方家に戻ってきてテキストを眺めながらその日にいわゆる「ロドニーキング事件」というスピード違反をした黒人を大勢の白人警官がこん棒や懐中電灯で捕まえたフリーウェイ脇で殴る蹴るの暴力を近くに住む住民がビデオで撮影しており、それが全米で公開され大騒ぎになった。その騒ぎで4人の警察官が起訴され、4月29日にその判決が下されることになっていた。テレビを見始めたときには既に無罪が発表されていた。 ただ問題はこのあとだった。 この判決を不服とした黒人たちが暴徒と化してまずはロスアンジェルス・ダウンタウンのどこかのビルを襲撃を皮切りに多くの黒人たちがあらゆるビルを襲撃し始めた。白人、黒人の人種差別の溝は十分理解していたのでこんなこともあるだろうと思っていたし、法で世の中を押さえ込む米国だから、警察などが鎮圧するだろうと、さほど気にしていなかった。 夕方になり食事の準備をしながらテレビを見ているとチョッパー(ヘリコプター)からの撮影された映像がテレビに映し出されていた。大きなトレーラーが信号待ちしているところに黒人たちがそのトレーラーを襲撃し、白人の運転手を引きずり下ろし暴行を加えているのである。その交差点の周りの店では暴行を加えようとする黒人たちと白人を助けようとする黒人たちが右往左往しているのが映っている。場所を聞くと自分が住んでいる場所とダウンタウンのちょうど中間辺りで少しだけ不安が高ぶるをの覚えたが、それはそれでテレビに映る遠い出来事という印象だけで、その晩はそれだけのことだった。 翌日も何も気にすることなく朝からカレッジへ行き授業を受けていた。確か、お昼をキャンパスの芝生の上で終えて友達とたわいもない話をしていたところ、キャンパスを駆け回る事務員が大声で「すぐに家に帰れ!」「サウスセントラルLAじゃ、大変なことが起こってる!!」そんな注意を聞いて、そういえば、昨日の黒人たちの暴動はどうなっているのかと思い出した。ロス自体はごく平らな街なのでそこにいるだけはあまり遠くを見渡すことができないが、駐車場から車でキャンパスの外へ出ようとしたら道は既にロスアンジェルス中の会社や学校から帰宅する車で大渋滞で通常5分で帰れる道のりを40分もかかって家にたどり着いたのを覚えている。帰宅途中の車の中から見えたのはダウンタウンから南の方向に黒い煙が何本も立ち上り、ラジオでは緊急放送ですぐに帰宅し、家から出ないように呼びかけていた、いわゆる外出禁止令である。その時やっと、テレビの映像と現実が一致して自分に迫る危機を理解できた感じがした。それまではテレビの映像はあくまでもテレビの映像であり、身近なものには捕らえることができなかったが、あの立ち上る何本もの黒煙を見ながら帰る家路は恐怖そのものであった。帰った後はまずは家から出れないことを想定して食材がどの程度あるか確認し、テレビを見ながらジッとしてるしかなかった。いつまでこの暴動が続いたのかよく覚えてないが、日本では味わうことの出来ない経験のひとつだった。特にこのロス暴動で主役となったのが韓国人経営のストアーが黒人居住区にあったので襲撃の対象となり、黒人と韓国人の溝がいっそう深まった事件だった。白人や黒人などからしたら日本人だろうが、韓国人だろうが、中国人だろうがどれも同じに見えるわけで、そうなると自分に降りかかるだろう危険は非常に大きいもので、全く人ごとじゃないわけです。テレビを見ると韓国人のストアー店主が銃を構えて黒人に対して連射している。後から知ったことだがこの時代にアメリカに住む韓国人たちはベトナム戦争帰りで戦争に参加したが代償にアメリカ居住を許された人たちが多かったそうだ。それもそのはず、銃の撃ち方がさまになっていた。黒人と韓国人との溝はその辺からスタートしているらしく、今まで黒人地区で経営されてたストアーなどをベトナム帰りの韓国人たちが取って代わり、単純労働をとして働いた黒人たちから半分の賃金で働くヒスパニック系の人間を雇用しはじめた頃から溝が深まっていった。本来ロドニーキング事件から黒人の怒りの対象だった白人から、さらに韓国人へと拡大していった部分からアメリカ自体に根深い人種問題を考えさせられた出来事だった。

Saturday, November 29, 2008

西海岸の美術館めぐり

ビバリーヒルズというイメージがあるけどよーく調べてみると有名な美術館などがあるのには驚いた。学校のない夏休みにお金もなくどこへもいけない時があり、家でぶらぶらしているのを知ったLAで事業をしていたA子さんがロスアンジェルス近郊にある美術館の基本情報を収集する仕事をまわしてきた。私自身芸術には興味だけはあったので暇に任せて点在する美術館めぐりをしてみた。そうしてみたら広大な敷地を持ったすばらしい美術館が沢山あるのには驚いた。それもその美術館は誰か美術品を収集してた人が美術館として開館したという大金持ちの趣味で集めた美術品を展示しているという日本とはスケールの違う何かを感じた瞬間でもありました。

Photo by Lisa Chu
c) Lisa Chu

ロスアンジェルスというと輝く太陽、パームツリー、ビーチ、ハリウッド、
ポールゲッティー・ミュージアム(その当時はマリブのみ)
ハンティントン・ライブラリー
ロスアンジェルス・カウンティー・ミュージアム・オブ・アート
ノートン・サイモン・ミュージアム
ロスアンジェルス・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート

アメリカに住んでいると、この辺の美術館で期間限定で行っている展示会に関しては新聞の日曜版にその情報のすべてが掲載されているので日曜版を活用してその週の計画を立てるといっても過言ではありません。私の場合は、美術館めぐりもそうですが、新作映画の封切や各地で行っているイベントなどもこの日曜版を元に計画をしていました。ご存知の方も多いかと思いますが、アメリカの日曜日の新聞は電話帳ぐらい分厚い読み応えのあるものです。半分はストアーの広告ですが、そのほかにその地域で1週間あるイベント情報やセールのお知らせ、映画情報など盛りだくさんの情報を掲載した別冊があり、それを見れば何処で何があるかすぐにわかります。ですから日曜日の朝はこの盛りだくさん情報の新聞を買い、サンタモニカあたりのレストランに行って深いローストのコーヒーを飲みながら朝食をゆっくり食べて、その1週間をどう過ごすか、さらに次の週末の計画を立てたりするの常でした。
今から考えると、何と優雅な生活を送っていたことでしょうか!?アメリカに住んでいた時の時間の使い方は本当に余裕があり、今までの人生の中で精神的に非常に充実してた時期だったと思います。

そしてその週末には各美術館や博物館、さらにはロスアンジェルスからI-5(インターステイツ5号線)というフリーウェイで南に行くとラグーナビーチという場所があり、そのには数々のアートギャラリーがあり有名無名のアーティスト達の作品が販売されており週末は近郊都市から賑わっていました。ギャラリーを見て回り、疲れたらエスプレッソを飲みながらはるかかなたまで続く太平洋を眺めながらアメリカンアートの話を繰り広げたりするわけです。

あんな生活を再び送れるのは・・・・いつでしょうか??

Friday, June 20, 2008

ユニバーシティー・ディストリクト

まだ、アメリカに住み始めて間もない頃は何もすることがなかった。これは日本で思い描いていた夢とは大きくかけ離れた部分でどうしようもない思いをどこへぶつけることもできずにひたすら住んでいた「ユニバーシティー・ディストリクト」を歩き回る日々が続いた。
日本にいた時はアメリカに住めば陽気なアメリカ人の友達とカフェでお喋りをしたり、キャンパスの芝生の上で丸くなってテキストを膝の上に載せて様々な話題を話し合ったりという思いを描いていた。ただ、そんな思いも虚しく英語も大して話せない極東から来た一学生を相手にしてくれる人は誰もいないことを思い知らされた。それでもまだ平日は学校もあるし、それなりに話す相手もいたが、土日は一人ぼっちのことが多かった。家にいても面白くないし、とにかく外へ出た。外に出てボーッと立っているわけにも行かないのでその辺をグルグルと歩き回る。するとそれはそれで発見はあるもので気を紛らわせるには丁度良かった。
始めは大学周辺のお店が密集しているユニバーシティーウェイという通りを中心に散策していたが、この辺はお店とかレストランとかがメインで数ヵ月後にはその辺のレストランは一通り食べ歩き(ただ、安いレストランのみ)、一応その通りは制覇した。
その後、ユニバーシティーウェイに直角に交わるNE 45th St.という大通りを西へ向かう。この通りを西へ向かうとWoodland Park Zooがあるのだがその時はまだ知らなかった。この通りを西へテクテク歩いていくとI-5(Interstate 5)という西海岸を北から南へ貫くハイウェイと交差する。I-5をまたぐ様に45th St.は通っており、高架橋から見るダウンタウン・シアトルの眺めはなかなかのものだった。片側6斜線ぐらいあるI-5はやはりアメリカの車社会の象徴のように見えたし、それがダウンタウンの高層ビル街に続く光景はいつかアメリカ映画で見たものを思い起こさせた。あの光景を見ていると孤独でありながらそれでもまだ心を奮わせる何かをあの土地から感じていたような気がする。
その高架橋を南へ向かってI-5に沿って南に下ると「Gas Works Park」という場所に出る。ここは何の工場なのか不明だがガス工場?だったのだろうか・・・名前からすると(笑)。赤茶けて錆付いた施設が何となく芸術作品っぽい不思議な場所です。そこからのユニオン湖を手前にしたダウンタウンの眺めはシアトルらしい光景でアルカイビーチからのダウンタウンの眺めにも負けない場所だと思う。映画などでも利用されているが「The Fugitive」というニック・ノルティーとマーティンショートの主演の映画にこのガスパークが出てきます。いい映画なので見たことのない方はビデオ屋さんへ行って借りてください。邦題は「3人の逃亡者」です。

やはり人間はどこかへこもっていたり、ただ単に何かが起こるのを待っているのではなく自分から行動を起こすことが大切です。アメリカでの生活は夢破れて辛いことが多かったですが、その代わりに大切なことも沢山学んだ時期だったと、今は思えるようになって来ました。

Sunday, May 4, 2008

人種差別考

「人種差別」と聞いて日本人のあなたは何を連想するだろうか?
少なくとも私はアメリカに行くまで「白人と黒人」というイメージが強かったが、実際にアメリカへ行ってみると日本人だって、中国人だって、アジア圏の人種たちだって普通に差別されていた。日本にいると日本人が差別されているというような話はあえてしないから通常耳に入ってこないのだろうとその時理解できた。
最初に差別的な経験をしたのが渡米してすぐに黒人からラジカセを買った。その時に彼に小切手で支払いをした。もちろんその黒人君はそのチェックをもって銀行へ行き、換金する。通常は小切手ときちんとしたID(身分証明書)を出せば現金をくれるのに、銀行としては・・銀行員としてはかもしれない・・本当に私が彼にチェックを切ったのかを確認しにわざわざ電話してきた。行員は「本当に彼に小切手をきったのか?」と執拗に確認してくる。さほど遠くではないので銀行まで出向いてきちんと説明してようやく黒人君は現金を得ることができた。ほんの些細なことだったがアメリカ社会に根ざす複雑な問題が今でも息づいていることを確認した瞬間だった。
あの頃はまだ私も青かったから人種差別と聞くと「肌の色」という単純な発想しかできなかったが、本当はもっともっと奥の深いものだということが判った。アメリカは本当に人種の坩堝だから肌の色が違う人々、宗教の違う人々、思想の違う人々があの大国を形成している。それが原動力にも発想の幅広さなどいい点もあれば、統一性が保てないという致命的な点でもある。アメリカは人種的に物事をはっきりさせたがるが、人種の違いなども非常に明確に違いを指摘しあう。明らかに違うから違うといっているわけで、それが別段悪いことではない。が、しかしその人種により上下関係をつける事自体がよくない。白人だから偉いとか黒人だから言い仕事に就けないなんて誰も決められない。だが、米国に住むそれぞれの人達の心の中に何かしらのランク付けが出来てしまっていて、それを声に出して言ったりしてしまう。これが争いの素になる。昔はそれでも良しとされていたが、現代社会は建前社会でありそんな理屈が通る分けない。偉い人は口々に「みな平等だ」と叫ぶ。黒人でちょっと教養のある人なんかもしきりに「平等」などと主張するが、それも何となくパンチに欠ける感がある。中には白人の学者で「肯定主義」などを掲げる人がいる。「肯定主義」とは人種が違うのはその通りであり、それを受け入れた社会形成・秩序をしていこうという主張である。例えばあの有名なカリフォルニア大学バークレー校などはこの精神を取り入れ、米国の人種の割合で学生の入学を枠を決めたりした時期があった。例えば黒人人口が10%だったら入学する学生の10%を黒人とする。これを聞いたときには単純な私は全く何を言っているのか判らなかった。授業自体が英語でやっていたことも大きな理由ではあったが、コンセプトが全く理解できなかった。それ自体が人種差別の何者でもないと思われたからだ。このやり方において弊害として10%枠を人種で区切ってしまうとたとえ成績があまり優秀でなくても入学してしまい、大学全体のイメージダウンにつながり、更には米国の将来を脅かすことになりかねなかった。まったくあちらを立てればこちらが立たずという感がある。
一方、日本での人種差別は全く違った形で存在する。日本国は国自体が島国で単一民族で構成されており、他の国から海を渡ってやってきた者たちは「異邦人」で区別することが普通である。その区別(差別)をすること自体が悪いことでもなんでもなくごく当たり前なことだから外国から来た人たちを平気で区別して傷つけてしまう。今でもそうなのか知らないが、私が学生の時は同じ学生でも在日韓国人の人たちは学生定期の値段が私達とは違った。日本で生まれて親が韓国人で韓国籍というだけで定期券の料金が違うのは不自然である。同じ人間で同じ学生なら定期券の料金は一緒でいいじゃないか?と思わずにはいられない。でも日本人は区別することに全くといっていいほど無頓着で気にしないからそんなことが沢山ある。もしそれを違うと指摘するとこっちがおかしいと言われかねない。
最近は多くの外国人が日本で生活をする時代になっており比較的人種差別などという意識もできてきたのではないかと思うが、本質は変わっていない人が多い。日本にいる限り「差別」という意識をすることは難しい。国際的な地位を目指す日本は今後もっともっと勉強しなくてはいけないことが経済の法則以外にもあるのではないかと思う。

Saturday, March 8, 2008

放浪の日々(シアトル編)

アメリカ西海岸の大学は基本的に4学期制をとっている(いた?)。1年間を3ヶ月の4セッションを行い単位を取得していくシステムである。夏のセッション(6月ー8月)を取らずに夏休みとするのが普通だが勉強熱心な学生はこの夏セッションでも単位を取得して早めに学生生活を切り上げる人もいる。
日本から来る英語学校だけに参加する人たちはこの約3ヶ月の1セッションの授業を受け日本に帰っていく。つまり出入りがかなり頻繁である。私の場合は、ずーっとシアトルにいたが何故かクォーター制(4学期制)のように居場所を転々とした。
シアトルに到着した時は、まず友人の友人がハワイから来ていて夏の間、いないのでそのアパートにお世話になった。Carter Yokoyamaと言って日系ハワイアンでとても親切な人だった。彼のアパートはワシントン大学のキャンパスから2ブロック西の2階建てのアパートだった。小さい1ルームだったがすべて揃っていたこともありとても快適に過ごすことが出来た。1度、彼の友達が尋ねてきて、ドアを開けたら本当に真っ黒な黒人の大男で、彼も私を見て驚いたとは思うが私もアメリカに来たばかりでかなり真剣に驚いた(笑)。
彼のアパートにいる間じゅう次のアパート探しに精を出した。ただなかなか思ったようなアパートは見つからなかった。その時、一人で住むよりも現地の人や日本人以外の人と住んで出来るだけ英語を使う生活をしようと考えていたのでシェアードハウス(shared House)に絞って探した。まず、キャンパス内にあるブリテンボード(掲示板)などから募集している場所を探し、電話して出かけて部屋を見せてもらう。これはかなり辛い作業だった。車もないのでいつもテクテク歩いて探し、歩いている途中に「For Rent」なんてサインを見るとそこもすかさず飛び込みで見せてもらった。飛び込み営業マンの辛さを少し垣間見たような気がした。それと英語も大して話せないアジア人をルームメイトにしたくないというようなあからさまな人種差別を経験もした。あれはかなりショックだった。日本で人種差別というと白人が黒人というような概念があったが、実際は白人と有色人種というくくりだと言うことが良く分かった。そんなこんながあってようやく1ヶ月200ドルというシェアードハウスを見つけた。さほど大きな家ではなかったが、ヨーロッパ人や台湾人、アメリカ人とバラエティーに富んだ家で家主が一応学校の先生だったので学生だけで住んでいるような殺伐とした家ではなかったのですぐに決めてしまった。キャンパスからは歩いて15分位のところで「キャンディーケーン・レーン」というクリスマスデコレーションのステック状のアメのような形をした通りで、クリスマスになるとその通りのすべての家が電飾で家を飾り、シアトル中から多くの人が実に来ると言うちょっと洒落た住宅地ということをその年のクリスマスに知った。家自体も外壁などは赤レンガ作りで絵本の中の家みたいでした。
ググッてみたら住んでた家がが見つかりました
そのおとぎの家に半年位お世話になった頃、I-5というアメリカ西海岸を南北につなぐ高速道路の近くで丁度ユニオン湖のガスパーク近くのアパートで夜になるとシアトルのダウンタウンの夜景とI-5を走る車のイルミネーションが見える2ベットルームのアパートに引っ越すことになった。アメリカで色々なところに住んだ中であのアパートほど景色のいい部屋はなかった。
そんな素晴らしい景色のアパートを彼女が出来たタイミングで出ることになり、今度は彼女と1ベットのこじんまりしたアパートに引っ越しました。ただし彼女との生活も平均的な引越しのタイミングの3ヶ月で彼女の次の学校が他の州に決まった為、彼女を失ったのと同時にアパートも失って本当の放浪生活となってしまった。とにかく彼女を見送った後は友達のホームステイ先に10日間程転がり込むはめになった。ちょうど6月の新学期のタイミングでドミトリー(学生寮)の2人部屋で一人しか入ってない友人の所にまたしても転がり込み、3ヶ月間をあちらこちらを転々とした生活を送って、この時期に両親にすごく心配させて申し訳ない思いをしたのを覚えてます。こっちはこっちで毎日生活していくのが精一杯だし、うちの両親はアメリカで息子が音信不通になっているし・・・。あの頃は国際電話も信じられないくらい高くてそうそう出来ずに、手紙を頻繁に送るようにしていたが、生活に追われてそんな心の余裕もなく3ヶ月ぐらい手紙書かなかったことが原因。もちろんEメールもなかったしね。
その後は、あまりいいアパートがなく困ったが、友人の家を点々とする生活にも疲れ、一時本当に小さな古いアパートに住み込んだことがあった。アパートの大家さんが2ベットルームを貧乏学生に一部屋ずつ斡旋してたんですよね。一人でいた時もあるし、日本人のかなり年のいった女性が入ってきたこともあるし、色々な人が出入りしてそれはそれなりに楽しく生活していました。
今振り返っても恥ずかしい生活をしてたと思います。ただあの頃はそんなパワーがあったんだとも感心もしてしまうのは歳をとった証拠でしょうか。

Thursday, February 14, 2008

シアトルでのコンサート三昧

シアトルは大都会ではなく、地方都市でしかない。だからこそ住み心地がいいのかもしれない。ただその分、楽しみも年中そちらこちらにあるわけでもない。そんなシアトルで楽しんだのはコンサートだった。日本では外国人アーチストのコンサートはチケット自体が高額で、更に入手するのもなかなか難しく行く機会が無かったが、アメリカに来てコンサートのチケットがこんなにリーズナブルな料金だったのには驚いた。ローリングストーンズなどの超大物は流石に50-80ドル位だったが、普通のコンサートだと25-35ドル程度が中心だった。更に、LAなどの人口密集地域とは違いシアトルでのチケット入手は比較的簡単だった。後にLAに引っ越して判ったが、LAなどでは基本的にチケットマスターというコンサートチケット販売業者に電話で予約するのだが、人気アーチストの場合、いい席を入手することは出来なかった。

そんな好条件の中シアトルで見に行ったコンサートだけでも・・・

ボンジョビ
ビリージョエル
リチャードマークス
バーシア
ポイズン
ホワイトライオン
ブライアンアダムス

もうかなり忘れてしまったけど、思い出しただけでもこれらのコンサートへ行った。彼らは有名人だがシアトルのあちらこちらでノン・プロのバンド達のコンサートへもかなり足を運んだ。その中に後のニルバーナがいたのには驚いた。というのもシアトルセントラルカレッジに通ってた時にアマチュアバンドのドラマーでAlexという学生がいて彼のジャムをよく聞きに行ったり、一緒に酒を飲んだりしてたが、彼の友達というのがあのニルバーナでよく多くのバンドが出ていたがその中に彼等もいたのだと世の中の狭さを感じる。

シアトルに滞在中はアルバイトも出来るような状況ではなかったので学生だけしていたから時間には相当余裕があり、あの時ほど好きな音楽を好きなだけ聞くことが出来た幸せな時だった。シアトルの冷たい雨がシトシト降る9ヶ月間を楽しく過ごすにはコンサートや映画などの娯楽が欠かせないかったのも確かだ。

Thursday, November 29, 2007

おにぎりの子守唄

おにぎりを見ると今でも思い浮かぶ情景と音が脳裏に蘇る。

あれは多分、私が3,4歳の頃だったと思う。当時父が肺病で入院しており母と2人で小さな公団住宅に住んでいた。昭和40年頃のことだから今から思うと想像もつかないことが沢山ある。例えばお風呂場の風呂桶は木で出来ていた。木ですよ!?流石に団地だから薪で火を起こしたりはしないが、今から思うと、とてもすごい事だと思う。あとその団地は5階建てで、その時代はダストシュートといって階段の脇に5階から1階にあるゴミ箱に投げ落とすシステムがあった。5階からゴミなんかを落とすからいつも1階のダストシュートの到着点はゴミだらけで臭かった。

そんな2DKの小さな団地に母1人、子1人で生活していた。はっきりとは覚えてないけれど、その時はとても貧乏だったのだと思う。何せ大黒柱の父は病で長期入院していたのですから。ただひもじい思いもせずに育ててもらったのだから本当に両親には感謝しないといけない。

ある晩、10時か11時頃だったのだろうか、エアコンなんて無いから窓は網戸だけで外からの音が聞こえてくる。住んでいたのはその団地の2階でベランダの下には芝生があり、その向こう側にはもう1棟の団地がある。その手前の道を酔ったサラリーマンが気持ちよさそうに歌を歌いながら家路を辿っていた。最近はそんな酔っ払いが住宅地を歌を歌いながら歩いてる様子なんて見たことが無い。どちらかというと酔ってタクシードライバーを殴ったり、同じ家路を急ぐ女性に付きまとったりと何となくほのぼのとした雰囲気は無く、常に危険を感じながら暗闇を歩いているというのが悲しい。そんな音に目を覚まして母親を揺り起こした。その時に母がおにぎりを食べさせてくれたことを鮮明に覚えている。小さなキッチンの板の間に小さなちゃぶ台がおかれていて、そこに海苔だけを巻いた白いおにぎりがおかれていた。網戸の方を見るとまだそちらから酔っ払いの歌が聞こえている。母が一言だけ「美味しい?」と聞いたことを覚えている。何気ない一瞬がどうして付きまとうのだろう?もう遥か昔のことなのに。

外からの音で目が覚めたのか、おなかがすいて目を覚ましたのか、全く覚えてないし、母もそんな一晩のことを覚えているわけが無い。ただ、その時に食べたおにぎりがとても美味しかったのと、酔っ払いが歌う歌が団地の壁に響き渡っていたのを今でも覚えている。
自分の子供達と接している時に、この子達がいつか大人になって私とのどんなことを覚えているのだろうか?一言一言、気をつけて話さないと・・・とつい思ってしまう。

Sunday, November 4, 2007

バンバシュート / シアトルの夏のしめくくり

シアトルの夏が終わりかける9月、アメリカ人の友人から「バンバシュートへ行こう!」と誘われた。始めはバンブーシュートとかと思い、シアトルに竹の子狩りとかがあるのかと思ったら音楽の祭典だった(笑)。スペースニードルがそびえる1962年に開かれたシアトル万博の跡地「シアトルセンター」であらゆるジャンルの音楽家たちが集まって週末に音楽の祭典が繰り広げられる。

音楽と芸術の祭典にふさわしいポスター

入場料をいくら払ったのか覚えていないが88年のバンバシュートは9月だというのにとても暑かったのを覚えている。野外で音楽を聞きながらビールが美味しかったのも覚えている。その年の音楽祭の出演者で私自身が知っている人はあまりいなかったが、私が知らないだけで、今になって調べてみるとかなり有名なミュージシャンが出ていたので驚いた。あの当時(今でもそうだが)、私は基本的にハードロックを真髄としていたのでジャズ、ブルース等のミュージシャンはたとえ有名人でもあまり知らなかった。しかし、知らないミュージシャンが多い中でも流石にラバンバのロスロボス、カントリーのボニーラット、ポップのリチャードマークス、サックスプレイヤーのソニーロリンズなどたとえ興味の無い音楽ジャンルの人たちの名前を聞くと「あっ、その人知ってる!!」という具合だった。
沢山の屋内、屋外のステージで同時に公演される為、自分の気に入った人をスケジュールからピックアップして時間を合わせて見に行かなくてはいけないのでそれが大変だったのを覚えています。実際、一緒に行く人は音楽の興味が同じ人じゃないと一緒には行動が出来ない状態で、実際にアメリカ人との友達は一緒に行ったけどバラバラになって帰ったのを覚えています。
翌年の1989年のバンバシュートではリトル・リチャード、アル・グリーン、BBキング、オーティス・ラッシュなどのステージを見てすごく感動しました。特にリトルリチャードは歳をとっていてもあれだけパワフルなステージをこなすことが出来、最後の曲では自分を飾るジュエリーや時計やすべてを歌いながらステージから客席に投げてお客を更に沸かせるあのショーマンシップには驚きました。それとギターの大御所BBキングのあのブルースはたとえ嗜好の違う音楽ジャンルだとしてもグイグイと引き込まれるギターでした。
あらゆる演奏者の瞬間、瞬間の場面を思い出しますが、この音楽の祭典を印象付けたのは、眩しいばかりのシアトルの太陽の下で沢山の人種がステージで演奏されている音楽を一緒に楽しみ、ビールを飲んだり、ホットドックやピザを食べてひと時を過ごすあの感覚はとても新鮮に思い出されます。
今まで色々なコンサートやイベントに行きましたが、あれだけ音楽を身近に、そしてとてもリラックスしながら聞くことが出来たのはあまり多くないと思います。コンサート自体比較的自分の気持ちを解き放つ場であるとは思いますが、通常のそれ以上に解き放たれる場でした。あの音楽の祭典に行くことがあるだろうか・・・と想いを馳せて、今夜ももう一杯・・・・。

Wednesday, October 31, 2007

Last Exit on Brooklyn

以前、エスプレッソ・ローマというシアトルのユニバーシティーディストリクトにあるお気に入りのカフェを紹介したが、よりマニアックな人達が集まるラスト・イグズィットというカフェも今まで出会ったカフェの中でベストスリーに入る思い出深く、素敵なお店でした。
その店の外観はとても古めかしく、ツタが這うレンガ造りの建物で重い木のドアを押し開けると天井が高く古い達磨型のストーブが冬の間、焚かれてたいようなカフェでお世辞にも「お洒落な」という店ではなく、どちらかと言うと汚い感じの店でした。中に入ればコーヒーの香ばしい香りとタバコや葉巻の香りが入り乱れた一種独特な雰囲気をい醸し出し、古きよきアメリカをそのまま感じるようなカフェでした。場所的にはワシントン大学のすぐそばで、細かく言えばBrooklyn Ave.の特に学生寮の道を挟んだ反対側にあったので来る客は学生が多いのは事実ですが、行ってみると本当にあらゆる人達が来ていました。このラスト・イグズィットというカフェはコーヒーを飲みに来るというよりも同じ趣味の人達が集まってコーヒーを飲むと言う雰囲気の場所で、例えば、シアトルの中でも囲碁をする人達はこの場所を利用して楽しみ、シアトルのあらゆる場所から囲碁をしに集まっていましたし、チェスなどの楽しむ人も沢山いました。そんなグループがあちらこちらに集まり、ちょっと騒がしげなジャズが流れる中、一生懸命勉強にいそしむ学生達、はたまた何かのテーマにおけるディスカッションをする人達とさまざまな人達の集まる場所でした。

もっとツタが壁を張っていたようなイメージがあるんですが・・・

更に、月曜日の夜9時からは歌を披露したい人達が集まり、1人、1、2曲歌う場が持たれ、何をすることでなく、コーヒーを飲みながら生ギター演奏を楽しんだりするのが楽しみでした。年齢もさまざまでしたが、やはり学生などの多くがあつまるこの場所で一番喜ばれた歌というのがカントリーソングだったのは驚きました。私がシアトルにいた80年代後半はポップミュージックが非常に流行った時期であり若者達の多くはこのような音楽嗜好があるのだとばかり思っていたが、このカフェに来る人達が一番盛り上がるのはカントリーミュージックだったことは彼らにとってそれがやはり彼らの心に触れる何かを持っているものなのだと痛感させられた。これは多分日本人が演歌を聴いてその叙情性を感じるのと同様に、アメリカ人はカントリーソングを聞くことによって決して長くは無いがその歴史の中で培われたアメリカ人なりの叙情性に訴える何かがあるのだろうと思う。
この古めかしい、貧乏学生やちょっと変わった人達が集まるカフェがとても居心地がよくいつもエスプレッソやラテを飲みながら、このカフェご自慢のホットアップルパイとバニラアイスを食べながら取り留めの無い話に興じ、ギター一本で歌を歌ったり、詩を朗読したりという何か芸術的で、でもやはり庶民的なこの古き良きシアトルのカフェは20年経つ今でもカフェというとこの場所を思い出して、私のカフェのスタンダードはこの形、雰囲気でしかないといっても過言ではない。

ただ、そんなカフェもビルディングコード(建物安全基準)や衛生基準に触れたり、特に喫煙基準が厳しくなった90年以降、カフェのオーナーの死を境にその本来の姿を変え、消えていくこととなったらしい。今ではあのカフェの姿はもう無いそうだ。今はただそんなカフェに出会えただけ幸せと思うしかありません。