Saturday, May 11, 2013

グリフィス天文台

初めてグリフィス天文台に行ったのはシアトルからロスに移り住み始めて数日後だったと記憶している。まだアパート探したり、初めてのLAをツーリスト気分で走り回っていた時だった。シアトルからはレンタカーで友人と一緒にレンタカーに荷物を積んで引越しをした。確かレンタカーはLAで乗り捨てという形だったと思う。アメリカはやはり車社会だからこのへんあらゆるニーズに対応してくれる。荷物が多ければ牽引車も貸してくれたりして車での移動が簡単にできる。さて、シアトルからLAへの珍道中に関してはまた次回の楽しみにして、グリフィス天文台だ。あの天文台をLAに行ったときに知っていたわけではない。ただ、行ってみて驚いた。実は昔から良く知っていたのだ。あなたも多分同じだと思う。それもそのはず、あの天文台とその山に向かう道は数々の映画の撮影で利用されていて、私がまずは身を寄せていたダウンタウンの西側からウィルシャーブルバードからハリウッドを抜けてグリフィス天文台の入り口の緑に囲まれた公園のような場所を抜けて気持ちいい道を走り抜けていくと、、、、『あれ?どこかで見たことある・・・以前来たことあるかなァ』という感じだった。来たこともないのに見たことある風景・・・。どこかで見たな、、、この場所。そうだ!Back to the future!で使われたトンネルだ!という具合で何かの映画でよく見る場所がそこここにある。天文台についてさらに驚き!ここがグリフィス天文台なのかと思う位、とても見慣れた場所だった。車を駐車して歩いているとジェームスディーンの上半身の銅像を見つけた。そして「理由なき反抗」」のあの有名なカーチェイスの撮影場所だ等ことも知った。映画で見たいろいろな風景がまさしく目の前にある、、、映画の中の遠くの存在、映画の中の空想の存在というが一気に身近になった瞬間だった。

ロスアンジェルスでの生活は人生の中でもとても印象の深い場所だ。

Friday, May 10, 2013

国際化を問う

国際化が叫ばれ始めてどのくらいが経つのだろう。少なくとも私が大学を卒業してから26年が経つがあの頃から日本では国際化の必要性が叫ばれてた。確かにインターネットが普及し、世界を駆け巡る為の航空運賃も大幅に下がりあらゆる意味での世界への窓は大きく開け放たれた感はあるが、根本的な部分で日本の国際化は進んでいない。久しぶりに日本に帰って来て思うのは、やはり日本は日本ということ。日本人の枠にはまらないと日本の社会では生きていけない。例えば国際化を意識して帰国子女などを受け入れる体制が整っているのは確かだが、果たしてそれが本当の意味での帰国子女受け入れ態勢だろうか?入学に関して優位とか考慮という意味では良いかもしれないが、入ってからは特に帰国子女に対しての特別なプログラムがある訳でもなく結局は同じだったりする。その部分では国際基督教大学高校は多くの帰国子女を受け入れているということもあるだろうが、その高校生活で日本語のレベルによってクラス分けをして対応してる。帰国子女と言うと英語が話せる日本人の子供たちと思いがちだが、英語や他の国の言葉は話せても海外生活が長すぎて日本語が十分でない、ましては日本語が全くと言っていいほど出来ない子供たちもいたりする。その子供たちに普通に日本語の話せるレベルで授業を受けさせても決して学問にはならない。単に学校に通っているだけになってしまう。日本ではその学校に入る、学校に通うだけが重要視される為、入学後のプログラムが文部省の言いなりのようなものになって、それさえこなせば子供たちが勉強できようが出来なかろうが関係ないような状況になってしまう。教員の苦労もわかるが、やはり日本語にハンデがある子供達のフォローをする体制ぐらいは必要だと思う。

日本は全くもって日本人しかいない単一の民族が海に囲まれた島にかたまっており、海外の動きや海外の全く違う考え方に慣れていない。もっともっとみんなが世界に触れ日本人の考え方、外国人達の考え方、自分たちの考えが本当に正しいのか、適切なのか、あらゆる方面から日本人という自分を客観的に考察できる人が育ってほしい。

Saturday, September 15, 2012

高齢化社会へようこそ  1年たって その2

うちの母親の状態が大きく変化したのもさることながら、やはり日本に帰国して一番心配していた子供達の日本の生活への適応度だった。確かに周囲の方々は日本人の父親を持つので多少日本語が話せるだろうと思う人も多かったが、母の力は偉大である。小さいときに1日中母親の影響は大きく、日本語を話さないうちの奥さんでは子供たちに日本語が伝わることはなかった。成長課程で母親の影響は絶大である。子供の時からもう少し日本語で接するなり、しておけばこんなことにもならなかったのだろうが、日本に帰ることになるとは全く持って想像してなかったから仕方がない。こうなるなら多少何とかしておけば良かったと思うが後の祭りである。
このように英語での生活を生まれた時からし続けて突然日本に戻って、それもいきなり普通の公立学校に放り込まれたうちの子供達の気持ちを考えると私も強引過ぎたとは思うが、それ以外方法も、お金もなかった。なんと言っても5月29日の夜に帰国して6月1日には普通に制服を着て学校に行ったのだから、、、、。私も6月1日は会社に初出社の日だったから子供達を学校に送ることもできずに奥さんに送って行ってもらった。もちろん6月1日だったから1学期の途中での転校なので学校では普通の授業が行われ、宿題だってちゃんともらってきた。そんなバタバタの日本の生活が始まって、まず会社から早く帰って、さっと食事をしてその後は子供達の宿題を見てやる日々が続いた。社会や理科などは英語での説明はよく知らない単語が多くかなり苦労した。ただ、子供達の苦労に比べたら大したことないとは思うがかなり時間をかけて宿題を終わらせて、あとは毎日の感じの練習と国語の教科書の音読み。そんな生活をしながら気づいたことが彼らの日本語のレベルは日に日にどんどん上がって行く。彼らなりに漢字の書き取りをしたり、声を出して国語の本を1日1回は読んだり、日本の漫画を見ながら辞書で意味を調べたり、確かに作文などはまだまだだけど、立派なものだと感心する。ベッドの横には1日の目標が書いてある。
1.音読
2.漢字練習
3.作文
等々、、、
中学生時代の自分の生活を重ね合わせる、、、言葉が出ないのとグッと来るものがある。

そんな毎日を過ごしながら1年でよくここまでの日本語のレベルに達したと思う。彼らはまだまだこれから高校受験があり、大学受験があり、苦労は絶えないかと思うが、ここできちんと日本語をマスターすれば彼らにとってとても大きな人生における糧となると思う。
最近では日本の子供同様、塾に行くと言い出して、私は大いに驚かされた。そんなことまでしなくても、、、と言ったのだが少なくても国語だけは行きたいと切望する息子に私は何も言えず、入塾書にハンコを押し、口座引き落としの書類をいつもより丁寧に書き終えた。

これがわが子か?と思う、、、塾に行ったことない私は思う。私も周りのクラスメートのように塾へ行っていたら人生変わっていただろうか、、、