Saturday, March 8, 2008

放浪の日々(シアトル編)

アメリカ西海岸の大学は基本的に4学期制をとっている(いた?)。1年間を3ヶ月の4セッションを行い単位を取得していくシステムである。夏のセッション(6月ー8月)を取らずに夏休みとするのが普通だが勉強熱心な学生はこの夏セッションでも単位を取得して早めに学生生活を切り上げる人もいる。
日本から来る英語学校だけに参加する人たちはこの約3ヶ月の1セッションの授業を受け日本に帰っていく。つまり出入りがかなり頻繁である。私の場合は、ずーっとシアトルにいたが何故かクォーター制(4学期制)のように居場所を転々とした。
シアトルに到着した時は、まず友人の友人がハワイから来ていて夏の間、いないのでそのアパートにお世話になった。Carter Yokoyamaと言って日系ハワイアンでとても親切な人だった。彼のアパートはワシントン大学のキャンパスから2ブロック西の2階建てのアパートだった。小さい1ルームだったがすべて揃っていたこともありとても快適に過ごすことが出来た。1度、彼の友達が尋ねてきて、ドアを開けたら本当に真っ黒な黒人の大男で、彼も私を見て驚いたとは思うが私もアメリカに来たばかりでかなり真剣に驚いた(笑)。
彼のアパートにいる間じゅう次のアパート探しに精を出した。ただなかなか思ったようなアパートは見つからなかった。その時、一人で住むよりも現地の人や日本人以外の人と住んで出来るだけ英語を使う生活をしようと考えていたのでシェアードハウス(shared House)に絞って探した。まず、キャンパス内にあるブリテンボード(掲示板)などから募集している場所を探し、電話して出かけて部屋を見せてもらう。これはかなり辛い作業だった。車もないのでいつもテクテク歩いて探し、歩いている途中に「For Rent」なんてサインを見るとそこもすかさず飛び込みで見せてもらった。飛び込み営業マンの辛さを少し垣間見たような気がした。それと英語も大して話せないアジア人をルームメイトにしたくないというようなあからさまな人種差別を経験もした。あれはかなりショックだった。日本で人種差別というと白人が黒人というような概念があったが、実際は白人と有色人種というくくりだと言うことが良く分かった。そんなこんながあってようやく1ヶ月200ドルというシェアードハウスを見つけた。さほど大きな家ではなかったが、ヨーロッパ人や台湾人、アメリカ人とバラエティーに富んだ家で家主が一応学校の先生だったので学生だけで住んでいるような殺伐とした家ではなかったのですぐに決めてしまった。キャンパスからは歩いて15分位のところで「キャンディーケーン・レーン」というクリスマスデコレーションのステック状のアメのような形をした通りで、クリスマスになるとその通りのすべての家が電飾で家を飾り、シアトル中から多くの人が実に来ると言うちょっと洒落た住宅地ということをその年のクリスマスに知った。家自体も外壁などは赤レンガ作りで絵本の中の家みたいでした。
ググッてみたら住んでた家がが見つかりました
そのおとぎの家に半年位お世話になった頃、I-5というアメリカ西海岸を南北につなぐ高速道路の近くで丁度ユニオン湖のガスパーク近くのアパートで夜になるとシアトルのダウンタウンの夜景とI-5を走る車のイルミネーションが見える2ベットルームのアパートに引っ越すことになった。アメリカで色々なところに住んだ中であのアパートほど景色のいい部屋はなかった。
そんな素晴らしい景色のアパートを彼女が出来たタイミングで出ることになり、今度は彼女と1ベットのこじんまりしたアパートに引っ越しました。ただし彼女との生活も平均的な引越しのタイミングの3ヶ月で彼女の次の学校が他の州に決まった為、彼女を失ったのと同時にアパートも失って本当の放浪生活となってしまった。とにかく彼女を見送った後は友達のホームステイ先に10日間程転がり込むはめになった。ちょうど6月の新学期のタイミングでドミトリー(学生寮)の2人部屋で一人しか入ってない友人の所にまたしても転がり込み、3ヶ月間をあちらこちらを転々とした生活を送って、この時期に両親にすごく心配させて申し訳ない思いをしたのを覚えてます。こっちはこっちで毎日生活していくのが精一杯だし、うちの両親はアメリカで息子が音信不通になっているし・・・。あの頃は国際電話も信じられないくらい高くてそうそう出来ずに、手紙を頻繁に送るようにしていたが、生活に追われてそんな心の余裕もなく3ヶ月ぐらい手紙書かなかったことが原因。もちろんEメールもなかったしね。
その後は、あまりいいアパートがなく困ったが、友人の家を点々とする生活にも疲れ、一時本当に小さな古いアパートに住み込んだことがあった。アパートの大家さんが2ベットルームを貧乏学生に一部屋ずつ斡旋してたんですよね。一人でいた時もあるし、日本人のかなり年のいった女性が入ってきたこともあるし、色々な人が出入りしてそれはそれなりに楽しく生活していました。
今振り返っても恥ずかしい生活をしてたと思います。ただあの頃はそんなパワーがあったんだとも感心もしてしまうのは歳をとった証拠でしょうか。