Saturday, September 15, 2012

高齢化社会へようこそ  1年たって その2

うちの母親の状態が大きく変化したのもさることながら、やはり日本に帰国して一番心配していた子供達の日本の生活への適応度だった。確かに周囲の方々は日本人の父親を持つので多少日本語が話せるだろうと思う人も多かったが、母の力は偉大である。小さいときに1日中母親の影響は大きく、日本語を話さないうちの奥さんでは子供たちに日本語が伝わることはなかった。成長課程で母親の影響は絶大である。子供の時からもう少し日本語で接するなり、しておけばこんなことにもならなかったのだろうが、日本に帰ることになるとは全く持って想像してなかったから仕方がない。こうなるなら多少何とかしておけば良かったと思うが後の祭りである。
このように英語での生活を生まれた時からし続けて突然日本に戻って、それもいきなり普通の公立学校に放り込まれたうちの子供達の気持ちを考えると私も強引過ぎたとは思うが、それ以外方法も、お金もなかった。なんと言っても5月29日の夜に帰国して6月1日には普通に制服を着て学校に行ったのだから、、、、。私も6月1日は会社に初出社の日だったから子供達を学校に送ることもできずに奥さんに送って行ってもらった。もちろん6月1日だったから1学期の途中での転校なので学校では普通の授業が行われ、宿題だってちゃんともらってきた。そんなバタバタの日本の生活が始まって、まず会社から早く帰って、さっと食事をしてその後は子供達の宿題を見てやる日々が続いた。社会や理科などは英語での説明はよく知らない単語が多くかなり苦労した。ただ、子供達の苦労に比べたら大したことないとは思うがかなり時間をかけて宿題を終わらせて、あとは毎日の感じの練習と国語の教科書の音読み。そんな生活をしながら気づいたことが彼らの日本語のレベルは日に日にどんどん上がって行く。彼らなりに漢字の書き取りをしたり、声を出して国語の本を1日1回は読んだり、日本の漫画を見ながら辞書で意味を調べたり、確かに作文などはまだまだだけど、立派なものだと感心する。ベッドの横には1日の目標が書いてある。
1.音読
2.漢字練習
3.作文
等々、、、
中学生時代の自分の生活を重ね合わせる、、、言葉が出ないのとグッと来るものがある。

そんな毎日を過ごしながら1年でよくここまでの日本語のレベルに達したと思う。彼らはまだまだこれから高校受験があり、大学受験があり、苦労は絶えないかと思うが、ここできちんと日本語をマスターすれば彼らにとってとても大きな人生における糧となると思う。
最近では日本の子供同様、塾に行くと言い出して、私は大いに驚かされた。そんなことまでしなくても、、、と言ったのだが少なくても国語だけは行きたいと切望する息子に私は何も言えず、入塾書にハンコを押し、口座引き落としの書類をいつもより丁寧に書き終えた。

これがわが子か?と思う、、、塾に行ったことない私は思う。私も周りのクラスメートのように塾へ行っていたら人生変わっていただろうか、、、

Friday, August 31, 2012

昭和の街角  コマーシャルの想い出

まだ小学生だった私には何か良くわからない衝撃的なCMだった。 今から考えると小さい時に見たCMをいつまでも覚えているよう気がする。どんなCMだったかよく覚えてないがオートバイの750CCが出た頃だと思うが、「ナナハンと呼んでください」というフレーズが今でも頭から離れない。多分、それは石井いさみ著の「ナナハンライダー」に出てくるHONDA Dream 750Fという名車のCMだったのではないかと思う。その他にもTDKの山下達郎の「Ride on Time」を起用したものや、NISSANケンメリスカイラインのCMなど数々の心に残る作品がある。最近はそんなCMもYoutubeなどで探せば見つかる物もあり、便利な世の中だとつくづく思う。昔だったらテレビのCM特集などを楽しみにして観ていたが、今では自分が好きな時間に探せるのだからついつい酒を飲み過ぎながら夜更かしをしてしまう。 このCMも特に印象に強いのと主人公を演じた松田優作という稀にみる個性的な俳優が主演を演じた映画のCMだったということもある。この映画は角川映画が大ヒットした「犬神家の一族」の後に望んだ第二作品という意気込みもあった。CMは切ないピアノと「母さん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね?」という松田優作の朗読から始まり、ジョー山中の英語訳の歌詞が続く、、、これは何のCMなんだ?という興味を引く演出で構成されたCMは当時の誰もが口ずさんだものだ。最近のCMは変に気をてらったものが多いが、うちの子供達が大きくなった時にどんなCMを覚えているだろうか。

人間の証明 角川映画

                 帽子   
                               西条八十

 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。 母さん、あれは好きな帽子でしたよ、 僕はあのときずいぶんくやしかった、 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。 母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、 紺の脚絆に手甲をした。 そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。 けれど、とうとう駄目だった、 なにしろ深い谷で、それに草が 背たけぐらい伸びていたんですもの。 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう? そのとき傍らに咲いていた車百合の花は もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、 秋には、灰色の霧があの丘をこめ、 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。 母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、 あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、 昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、 その裏に僕が書いた Y.S という頭文字を 埋めるように、静かに、寂しく。

Wednesday, July 25, 2012

昭和の街角  街の映画ポスター

子供の頃、街を歩いているといろいろなものがあった。今だって色々なものがたくさんあって目を楽しませてくれるがあの映画のポスターほど楽しいものはない。映画のポスターが駅の近くとかに貼ってあるのはよくわかる。その近くに映画館とかあってそこで上映しているものを宣伝している。でもうちは駅からも遠いし、映画館が近くにあるわけでもない。でもなぜかあの交差点の国道に面した木の塀に打ち付けられた雨に濡れないようにちょっとだけひさしの付いたボードに映画のポスターは貼られていた。 ポスターは定期的に変更された。通常2つのポスターが貼られていてどちらも有名な映画のポスターがはられているのは見たこともない。いつも貼られているのは成人映画のポスターだった。もちろん成人映画、いわゆるポルノ映画だからそのポスターはそれなりに中学生ぐらいの年齢の男の子の目を釘付けにする。あのころはそんなポスターを見るだけでもドキドキするぐらいだからかわいいものだ。ポスターはなぜかいつまでも貼られていた。ボロボロになって「そろそろかな」と思うといつの間にか新しいポスターに張り替えられている。しかし、あのポスターはすごい。本当にすごい。何気なく普通の通りに貼られているだけなのに通ると必ず見てしまう、、、俺がただ助平なだけか?いや、あれはこの近所の誰もが通るたびに見ている、、、そして次の新作を楽しみに毎日毎日通っていたに違いない。あのポスターを見るだけでいろいろなことを想像する。通りがけにちらっと見るだけでわくわくするのにそれから想像を膨らますのだからあのポスターの宣伝広告効果は計り知れないものがある。 ただ、あのポスターを見たからと行って成人映画を見に行くことはなかった、、、もちろん未成年だったからということもあるが、たとえ大人でも見には行かなかっただろう。ポスターから想像するだけで十分でチケットの購入まではたどり着かない。ふっと考えるとその宣伝効果は本物だろうかと考える。何をもってすばらしい広告と言えるのだろう?? そんなことを考えながらあの交差点を通りかかる、、、ポスターが貼られた交差点の角の家はもう取り壊されて時間貸しの駐車場になっている。あの塀があったころは見通しの悪い交差点だったが、今は比較的視界がいい。ただ、あのポスターがあった時は信号が点滅していたらすぐに止まったが、今はかなり強引に渡ってしまおうとする。ポスターはもっと広告効果のほかにもっと違った効果をもたらしていたのかもしれない。

Saturday, June 16, 2012

高齢化社会へようこそ  1年たって その1

日本に帰ってきてあっという間に1年が過ぎてしまった。 2011年5月29日のフライトで降り立った成田空港は台風のようなひどい雨だった。当初はバスで帰ろうかとも思っていたが家族5人(当時は)で大きな箱が11個を抱えての帰国だったから空港から実家まで片道レンタカーを頼んでおいてそれは正解だった。 あれから1年。子供たちも日本の生活に慣れ、日本語もかなり話せるようになった。うちの奥さんも週1回は日本語教室に通ったりしてそれなりに日本の生活に慣れようと努力してる。今後のために日本の運転免許もとったりしてしているので、車を購入するとさらに行動範囲が広まり楽しくなるだろう。 帰ってきたときにはまだ起き上がったり食事をしたりしてた母は昨年の夏に肺炎になって入院してからは寝たきりの生活となってしまった。もともと脳梗塞を患ったことがあり、その影響か寝たきりになるのはあっという間の出来事だった。今まで日本はいろいろな面できちんとしていると思っていたが、あの母親が肺炎で高熱が出て救急車を呼んだ時は何とも自分の母国日本に対する買い被りに呆れた。救急車が早く来てくれて、母を救急車に乗せこむまではいいが、そっから先が大変だった。受け入れ先の病院が見つからないのだ。例え熱だけだといっても79歳にもなる老人の高熱はやはり危険を感じる。救急車を呼んだのは夜の11時過ぎだったが真夜中になろうとしている時間まで救急隊は電話で受け入れ先を探している。 理由はいろいろあった。「病院のベットがいっぱい」「当直の先生がいっぱいいっぱい」「緊急処置室まであふれてる」最後の最後になんとか個室が空いているのでとりあえず連れてきてくださいという病院にたどり着いた。緊急隊員のリストにはたくさんの病院、それも緊急受け入れ可能の病院があったようだが、実際に受け入れをしてくれるとこは少ないようだ。物理的に不可能はわかるが、母以上に緊急を要する患者の受けれがこのような状況だと本当に困る。報道でよく医者不足や緊急対応が不可能という話題をよく見るが実際にその立場になると改善が本当に必要だということを実感する。 そんなこんなで夜中の街を救急車で駆け抜けて病院にたどり着いたが、さらにそこで医者と看護婦がバタバタとしてようやく落ち着いたのは1時が過ぎていた。母はレントゲンを確認したところ肺炎と判断され、それに合った薬をうたれて熱も下がり落ち着いた。一通りの入院の手続きを済ませ、夜中なので病院から用意してくださいというものもそろえられないのでその日はとりあえず落ち着いた母を確認してから家に帰った。 それからの3ヶ月はそれなりに大変だった。父はいくら夕方といっても夏の暑い時期にバスに乗り継いで病院に通った。土曜、日曜日は私が担当して病院に通った。1ヵ月が過ぎて流石に父も疲れたのか平日でも行かない日が出てきたので私が会社帰りにできるだけ曜日を決めていくようにした。母の肺炎は何とか快方に向かい11月には退院ができそうな兆しが出てきた。ただ、肺炎の原因となった誤嚥はそのままだったので胃に直接栄養剤を流し込む為の胃瘻を作るか、その時のしていた鼻からチューブを胃に直接入れて栄養剤を流し込む方法のどちらかで過ごす必要があった。母の場合は以前に胃の半分以上を摘出しているため、胃瘻を設けることができず、鼻からのチューブで栄養と薬を入れ込む方法で過ごすことになった。ただ、これに関してはやはり通常が看護婦がやるような作業だが家に連れて帰ると決めていた父は医者の指示通り、父と私の妻が病院に3週間通い栄養剤の与え方や、おしめの替え方、痰のとり方など一通りの実地授業を受けて11月に無事家に戻ってきた。 家に帰ってからは介護保険を使い、朝晩に1回ずつ下の世話や体を拭いたり、口の清掃をしたりするヘルパーさんが来てくれて父と私の奥さんの手間を軽減してくれるようにケアマネージャーがすべてアレンジをしてくれた。鼻からチューブを入れているので衛生面に関してとても慎重に対処しなくてはならず、毎週1回は看護婦さんが様子を見に来ることになった。鼻からのチューブはやはりボケた頭の母にとっても邪魔だとみえて、帰ってきて二日目ぐらいにいきなり朝引き抜いてしまってあわてて看護婦さんを呼んだりした。何度かそんなチューブ引き抜き事件があってからは母の引き抜きも落ち着いて多少抜くぐらいだと父がゆっくりとチューブを入れ直したりたりするようになった。最近分かったことだが、この鼻からチューブでの栄養剤注入というのはとても危険が伴うようでこの状態の患者を一時的に預かってくれるところはないそうだ。胃瘻でも厳しいらしく、鼻からのチューブの患者の一時預かりは皆無だそうだ。それだけ大変なことをうちの奥さんが文句も言わず毎日こなしているというのは頭が下がる、、というか全く持って頭が上がらない。