Saturday, May 2, 2009

給食

小学校へ入学したのは昭和45年だった。
小学校自体は家から20分以上も歩いて通った。埼玉県和光市という今でこそかなり都会になったと聞いているが、私の小学校時代はあの辺はまだ畑が続く光景ばかりの場所だった。私の住む団地(和光南大和団地)の裏手にはモモテハイツという米軍の駐留地が広がり高いフェンスとその上に通る4本のバラセン(薔薇線?)の向こうにはアメリカそのものが広がっていた。後から知ったことだが私の親がしきりに言っていた極東放送(FEN)というラジオはその区域から発せられたものだったらしい。

生活や将来の不安も何もない小学校の生活は快適そのものだった。
団地に住んでいた私は家の周りで遊ぶメンバーも学校のクラスメートもほぼ同一であり、あらゆる面で気心知れている友達との生活の延長に学校生活もあった。つまり今から考えてみると私生活と学校生活の境があまり見当たらなかった気がする。逆に言うと勉強も遊びも境がない、どちらかというとあまりまじめな生徒ではなかったのかもしれない。
学校生活で楽しみのひとつは給食。クラスでの朝礼を終えて、1時間目、2時間目、3時間目あたりになると廊下をつたって給食の匂いがしてくる。私の通っていた学校は鉄筋コンクリート4階建て?の校舎で1階には大きなキッチンがあった。中に入ったことはないが外から大きな釜が見えていたがあれで料理をしていたらしい。あの釜は小学生の小僧にとってはとてつもなく大きな釜だった。あの大きな釜で何人分の生徒の給食を作っていたのだろう?1学年に6組位だったから全校生徒で1800名か??やはりすごい!
そう考えると給食を作るのも一苦労だが、ひとクラス50名位に給仕する小学生の給食当番にとっては一大イベントだった。50人分の食パンと50人分のスープの入ったズンドウ、50人分のおかず、50人分の牛乳、そしてデザート。これらを手際よく給食当番の人たちが用意し、クラス全員に公平に給仕する。ちなみに私の小学校では給食当番の人はおかわりができるという特典付きだったため、男子生徒なら誰もが希望してやりたがる人気のある仕事だった。ただ、あの白い割烹着(かっぽうぎ)姿は決してかっこいいものではなかった。

あの給食というのは良く出来たシステムだと思う。あの給食のおかげで普段家では食べられないものを食べることが出来た。といっても別段、給食でとびっきり美味しいものが出されるとか、家ではろくでもないものしか出なかったというわけではない。例えば、うちの家庭では中華料理が出ることはなかった。中華料理、特に『酢豚』は今まで家で見たことも食べたこともなかった。つまり私が生まれてこの方、酢豚なるものを食べたことない訳だ。

どうしてか?

うちの父は山形生まれで育ちの田舎者で焼き魚とおしんこ、味噌汁ぐらいしか食べたことのない人間だった。で、母親はと言うと神田生まれの神田育ちで祖父も新しい物好きの人間だったから色々なものも食べているし、結婚する前に一生懸命お料理学校にも通って、愛する父の為に料理の腕を磨いた。或る日、母が酢豚を作って父の帰りを待った。母はとろみのついた食事が好きだったから母の好物だったに違いない。人間は自分勝手だから自分が好きなもは他の人も好きに違いないと錯覚することが多い。ただこの酢豚なるものを食べるのは父とっては初めてのことだった。一口食べた父が「何だ!この料理は・・・」と言ったきり、母は二度と酢豚を作ることはなかったという我が家の伝説がある。そのおかげで私自身は酢豚なるものを食べたことがなく、その当時は「バーミヤン」もないから手軽に酢豚などを食べる機会もなかったわけ。
そんな状況において給食に酢豚のちょっと変形した野菜よりとろみが多い料理があり、その美味しいこと。父の意に沿って比較的あっさりした食事が多かった我が家の料理とは違う!!こんな料理があったは・・・・。それから思い出深いのは鯨の竜田揚げが硬くて食べ難いのなんのって。から揚げ、って言うのは見た目でわかったが食べてみるとあの黒々とした肉。最初のうちはそれが鯨だとは知らずに食べてたが、後から鯨だと聞いて鯨の肉は鯨のベーコンぐらいにしておこうと思った。このように給食は普段家庭では食べない食事を食べたりと教育過程で必要な食事のバリエーションを教えてくれる。
さらに食事のバリエーションを教えてくれるだけではなく、いかに限られたメニューの中で工夫して美味しく食べるかを考えさせる。
例えばビニールに入ったうどんが出てくるとそれに合わせてスープっぽいカレーが出てきて、そのスープにうどんを入れて食べたりと楽しみのランチを更に楽しくするために子供ながらに工夫をした。毎日出てくる食パンだっていつもマーガリンを付けるだけじゃ面白くないと、おかずをサンドイッチにして食べてみたり、子供ながらに残さずに食べる工夫をした思い出がある。
ただし、残念ながらバリエーションも工夫もあのアルマイトと呼ばれる食器では美味しく食べるという基本的な部分で大いにマイナスだったように思える。多分、耐久性などが中心にあの素材が選ばれたのだとは思うが、やはり味気ない感じがする。長年使っているせいでボコボコにへこんだり、傷がついたり、黒ずんでいたりして、出来るだけ自分のところには綺麗な食器が来ないかと期待してたが、そんな切実な思いをしているッところへボロボロのアルマイトのスープボールとかが回ってくると隣のクラスメートの綺麗なスープボールと見比べて心から恨めしく思えた。それと諸兄もご存知だと思うが、あのスプーンともフォークともいえないあの不思議なスプーン(やはりスプーンか?)。あれだったら、家から箸を持ってこさせればいいのではないかと思うが、どうだろう?確かあのスプーンを給食で使っているので箸をちゃんと使えるこどもが減ったと騒いだ人がいたが、わからないでもない。あのスプーンはどう考えても優れものとは思えない。あのお陰でお箸をきちんと使える子供たちが減ったとしたらさらに良くない。

今の給食をグーグルで検索してみたが、グラタンなど大幅に私の頃のメニューとは変わってちゃんとお箸で食べるようになっているようです。こうやって懐かしむ諸兄も多いようで昔の学校給食のメニューをセットで販売する商売もあるそうで・・・・今度日本に帰ったときに試してみようかとも思いますが、さすがにアルマイトの食器はないだろうな~。

Sunday, April 12, 2009

電話ボックスの思い出

会社で働く若い社員達は我慢をするということがないように思える。別に我慢が美しいと昔ながらの日本的な風習を美化するわけではないが、あまりにも我慢がないように思える。新聞の3面記事には「ついカッとなって・・・」「目つきが気に入らなかった・・・」「むしゃくしゃしてたから・・・」という理由にもならない理由で人を殺してしまったりする輩(やから)が後を絶たない。さいきんの若い社員をみていると同様に「気に入らない・・・」とか「こんな仕事するつもりで入社したわけじゃない・・・」とか「だったら辞めろよ」なんて言うと「じゃ、辞めます」とあっさり言われてしまい、少なからずこちらも動揺したりする。この辺の人間関係に対するの今と昔が会社での上下関係を大きく左右して、更に若者は社会への失望を強めていく。



最近は街中を歩いていて公衆電話ボックスを見かけることはメッキリなくなった。
私の子供の頃の電話ボックスは全体がベージュで半分より上が四方ガラス窓になった細長いボックスで屋根が、注意を引くためか赤く塗られていた。更に出入り口のドアの取っ手の代わり丸い穴が開いておりその周りに黒いゴムをはめ込んだ何の洒落気もないただのボックスだった。その後、全面ガラス張りの今風の電話ボックスが現れ、ドアも凝った作りなのはいいが、開け難くて仕方なかった。2,3人で一緒に入ろうとするとあの折りたたみのドアの使いにくさを恨みさえしたのを覚えている。
自分自身が恋に目覚める年頃だったせいか、あの公衆電話ボックスは、あれはあれなりに色々な思い出の場面場面で重要な場面の背景として登場し、ドラマチックな演出をしていたような感がある。というか恋をしているとその人と少しでも一緒にいたい、一緒に話したいという欲求から電話という『文明の利器』が何と有難かったことか。さらにそれを利用できる個室があるなんて、3分10円は何というバーゲンプライスなことか!
寒い日などタバコの臭いを主とした何ともいえない臭いが漂う電話ボックスの中で足元に直撃する寒い北風を避けながら電話のうえに十円玉を載せて彼女に長電話をかけた思い出がある。あの闇の中にたたずむ電話ボックスの有様はなんとも切ないような哀愁を感じるのは私だけだろうか?



今は本当に携帯電話というとてつもなく便利なものが出来てしまったお陰で電話における男と女のラブストーリーは時代とともに様変わりしてしまったが、あの頃は電話をするとしても彼女の自宅に電話するか、バイト先に電話するかで、彼女が出るときもあれば、親が出るとき、上司が出るとき、全くでないときという様々なパターンが想定できそれなりの対応を電話のプッシュボタンを押しながら呼び出し音が鳴る数回の間に瞬時に想定パターンを考えるというとっさの対応という訓練の場であったのではないだろうか。例えば、彼女の自宅に電話をして在宅している彼女のお父さんが突然電話に出た時の動揺とパニック状態の中からどんな話し方をしたら好青年のイメージを与えられるか?声のトーンは?声が上ずっていないだろうか?というペンティアムでさえ一瞬のうちに処理できない対応方を迫られるあの瞬間に大くの諸兄たちも鍛えられ、今になって上司から突然の質問にもきちんと対応できる下地をあの公衆電話で培ったのではないだろうか?それからあの留守番電話の録音テープが陽気な彼女の声だけ流れて、いきなり「ピッー」と鳴ったりしたときは携帯電話の「電波の届かない場所・・・」というような録音とはまったく違った無念さと傷心からどのような辛い社会環境にも対応しうる根性を培ったのではあるまいか?
あの狭い中でガラスに寄りかかりその無念さを支えてくれた電話ボックス。何も言わずそっと包み込んでくれるあの味のある電話ボックスが消えつつあるのは何か惜しい気がするが、時がいつまでも止まってくれと思うのは歳をとったせいだろうか?

Wednesday, March 11, 2009

ロス暴動

1991年4月29日月曜日。 何てことない普通の週の始まりだった。カレッジでの授業をを終え、夕方家に戻ってきてテキストを眺めながらその日にいわゆる「ロドニーキング事件」というスピード違反をした黒人を大勢の白人警官がこん棒や懐中電灯で捕まえたフリーウェイ脇で殴る蹴るの暴力を近くに住む住民がビデオで撮影しており、それが全米で公開され大騒ぎになった。その騒ぎで4人の警察官が起訴され、4月29日にその判決が下されることになっていた。テレビを見始めたときには既に無罪が発表されていた。 ただ問題はこのあとだった。 この判決を不服とした黒人たちが暴徒と化してまずはロスアンジェルス・ダウンタウンのどこかのビルを襲撃を皮切りに多くの黒人たちがあらゆるビルを襲撃し始めた。白人、黒人の人種差別の溝は十分理解していたのでこんなこともあるだろうと思っていたし、法で世の中を押さえ込む米国だから、警察などが鎮圧するだろうと、さほど気にしていなかった。 夕方になり食事の準備をしながらテレビを見ているとチョッパー(ヘリコプター)からの撮影された映像がテレビに映し出されていた。大きなトレーラーが信号待ちしているところに黒人たちがそのトレーラーを襲撃し、白人の運転手を引きずり下ろし暴行を加えているのである。その交差点の周りの店では暴行を加えようとする黒人たちと白人を助けようとする黒人たちが右往左往しているのが映っている。場所を聞くと自分が住んでいる場所とダウンタウンのちょうど中間辺りで少しだけ不安が高ぶるをの覚えたが、それはそれでテレビに映る遠い出来事という印象だけで、その晩はそれだけのことだった。 翌日も何も気にすることなく朝からカレッジへ行き授業を受けていた。確か、お昼をキャンパスの芝生の上で終えて友達とたわいもない話をしていたところ、キャンパスを駆け回る事務員が大声で「すぐに家に帰れ!」「サウスセントラルLAじゃ、大変なことが起こってる!!」そんな注意を聞いて、そういえば、昨日の黒人たちの暴動はどうなっているのかと思い出した。ロス自体はごく平らな街なのでそこにいるだけはあまり遠くを見渡すことができないが、駐車場から車でキャンパスの外へ出ようとしたら道は既にロスアンジェルス中の会社や学校から帰宅する車で大渋滞で通常5分で帰れる道のりを40分もかかって家にたどり着いたのを覚えている。帰宅途中の車の中から見えたのはダウンタウンから南の方向に黒い煙が何本も立ち上り、ラジオでは緊急放送ですぐに帰宅し、家から出ないように呼びかけていた、いわゆる外出禁止令である。その時やっと、テレビの映像と現実が一致して自分に迫る危機を理解できた感じがした。それまではテレビの映像はあくまでもテレビの映像であり、身近なものには捕らえることができなかったが、あの立ち上る何本もの黒煙を見ながら帰る家路は恐怖そのものであった。帰った後はまずは家から出れないことを想定して食材がどの程度あるか確認し、テレビを見ながらジッとしてるしかなかった。いつまでこの暴動が続いたのかよく覚えてないが、日本では味わうことの出来ない経験のひとつだった。特にこのロス暴動で主役となったのが韓国人経営のストアーが黒人居住区にあったので襲撃の対象となり、黒人と韓国人の溝がいっそう深まった事件だった。白人や黒人などからしたら日本人だろうが、韓国人だろうが、中国人だろうがどれも同じに見えるわけで、そうなると自分に降りかかるだろう危険は非常に大きいもので、全く人ごとじゃないわけです。テレビを見ると韓国人のストアー店主が銃を構えて黒人に対して連射している。後から知ったことだがこの時代にアメリカに住む韓国人たちはベトナム戦争帰りで戦争に参加したが代償にアメリカ居住を許された人たちが多かったそうだ。それもそのはず、銃の撃ち方がさまになっていた。黒人と韓国人との溝はその辺からスタートしているらしく、今まで黒人地区で経営されてたストアーなどをベトナム帰りの韓国人たちが取って代わり、単純労働をとして働いた黒人たちから半分の賃金で働くヒスパニック系の人間を雇用しはじめた頃から溝が深まっていった。本来ロドニーキング事件から黒人の怒りの対象だった白人から、さらに韓国人へと拡大していった部分からアメリカ自体に根深い人種問題を考えさせられた出来事だった。