Thursday, November 29, 2007

おにぎりの子守唄

おにぎりを見ると今でも思い浮かぶ情景と音が脳裏に蘇る。

あれは多分、私が3,4歳の頃だったと思う。当時父が肺病で入院しており母と2人で小さな公団住宅に住んでいた。昭和40年頃のことだから今から思うと想像もつかないことが沢山ある。例えばお風呂場の風呂桶は木で出来ていた。木ですよ!?流石に団地だから薪で火を起こしたりはしないが、今から思うと、とてもすごい事だと思う。あとその団地は5階建てで、その時代はダストシュートといって階段の脇に5階から1階にあるゴミ箱に投げ落とすシステムがあった。5階からゴミなんかを落とすからいつも1階のダストシュートの到着点はゴミだらけで臭かった。

そんな2DKの小さな団地に母1人、子1人で生活していた。はっきりとは覚えてないけれど、その時はとても貧乏だったのだと思う。何せ大黒柱の父は病で長期入院していたのですから。ただひもじい思いもせずに育ててもらったのだから本当に両親には感謝しないといけない。

ある晩、10時か11時頃だったのだろうか、エアコンなんて無いから窓は網戸だけで外からの音が聞こえてくる。住んでいたのはその団地の2階でベランダの下には芝生があり、その向こう側にはもう1棟の団地がある。その手前の道を酔ったサラリーマンが気持ちよさそうに歌を歌いながら家路を辿っていた。最近はそんな酔っ払いが住宅地を歌を歌いながら歩いてる様子なんて見たことが無い。どちらかというと酔ってタクシードライバーを殴ったり、同じ家路を急ぐ女性に付きまとったりと何となくほのぼのとした雰囲気は無く、常に危険を感じながら暗闇を歩いているというのが悲しい。そんな音に目を覚まして母親を揺り起こした。その時に母がおにぎりを食べさせてくれたことを鮮明に覚えている。小さなキッチンの板の間に小さなちゃぶ台がおかれていて、そこに海苔だけを巻いた白いおにぎりがおかれていた。網戸の方を見るとまだそちらから酔っ払いの歌が聞こえている。母が一言だけ「美味しい?」と聞いたことを覚えている。何気ない一瞬がどうして付きまとうのだろう?もう遥か昔のことなのに。

外からの音で目が覚めたのか、おなかがすいて目を覚ましたのか、全く覚えてないし、母もそんな一晩のことを覚えているわけが無い。ただ、その時に食べたおにぎりがとても美味しかったのと、酔っ払いが歌う歌が団地の壁に響き渡っていたのを今でも覚えている。
自分の子供達と接している時に、この子達がいつか大人になって私とのどんなことを覚えているのだろうか?一言一言、気をつけて話さないと・・・とつい思ってしまう。

Sunday, November 4, 2007

バンバシュート / シアトルの夏のしめくくり

シアトルの夏が終わりかける9月、アメリカ人の友人から「バンバシュートへ行こう!」と誘われた。始めはバンブーシュートとかと思い、シアトルに竹の子狩りとかがあるのかと思ったら音楽の祭典だった(笑)。スペースニードルがそびえる1962年に開かれたシアトル万博の跡地「シアトルセンター」であらゆるジャンルの音楽家たちが集まって週末に音楽の祭典が繰り広げられる。

音楽と芸術の祭典にふさわしいポスター

入場料をいくら払ったのか覚えていないが88年のバンバシュートは9月だというのにとても暑かったのを覚えている。野外で音楽を聞きながらビールが美味しかったのも覚えている。その年の音楽祭の出演者で私自身が知っている人はあまりいなかったが、私が知らないだけで、今になって調べてみるとかなり有名なミュージシャンが出ていたので驚いた。あの当時(今でもそうだが)、私は基本的にハードロックを真髄としていたのでジャズ、ブルース等のミュージシャンはたとえ有名人でもあまり知らなかった。しかし、知らないミュージシャンが多い中でも流石にラバンバのロスロボス、カントリーのボニーラット、ポップのリチャードマークス、サックスプレイヤーのソニーロリンズなどたとえ興味の無い音楽ジャンルの人たちの名前を聞くと「あっ、その人知ってる!!」という具合だった。
沢山の屋内、屋外のステージで同時に公演される為、自分の気に入った人をスケジュールからピックアップして時間を合わせて見に行かなくてはいけないのでそれが大変だったのを覚えています。実際、一緒に行く人は音楽の興味が同じ人じゃないと一緒には行動が出来ない状態で、実際にアメリカ人との友達は一緒に行ったけどバラバラになって帰ったのを覚えています。
翌年の1989年のバンバシュートではリトル・リチャード、アル・グリーン、BBキング、オーティス・ラッシュなどのステージを見てすごく感動しました。特にリトルリチャードは歳をとっていてもあれだけパワフルなステージをこなすことが出来、最後の曲では自分を飾るジュエリーや時計やすべてを歌いながらステージから客席に投げてお客を更に沸かせるあのショーマンシップには驚きました。それとギターの大御所BBキングのあのブルースはたとえ嗜好の違う音楽ジャンルだとしてもグイグイと引き込まれるギターでした。
あらゆる演奏者の瞬間、瞬間の場面を思い出しますが、この音楽の祭典を印象付けたのは、眩しいばかりのシアトルの太陽の下で沢山の人種がステージで演奏されている音楽を一緒に楽しみ、ビールを飲んだり、ホットドックやピザを食べてひと時を過ごすあの感覚はとても新鮮に思い出されます。
今まで色々なコンサートやイベントに行きましたが、あれだけ音楽を身近に、そしてとてもリラックスしながら聞くことが出来たのはあまり多くないと思います。コンサート自体比較的自分の気持ちを解き放つ場であるとは思いますが、通常のそれ以上に解き放たれる場でした。あの音楽の祭典に行くことがあるだろうか・・・と想いを馳せて、今夜ももう一杯・・・・。

Wednesday, October 31, 2007

Last Exit on Brooklyn

以前、エスプレッソ・ローマというシアトルのユニバーシティーディストリクトにあるお気に入りのカフェを紹介したが、よりマニアックな人達が集まるラスト・イグズィットというカフェも今まで出会ったカフェの中でベストスリーに入る思い出深く、素敵なお店でした。
その店の外観はとても古めかしく、ツタが這うレンガ造りの建物で重い木のドアを押し開けると天井が高く古い達磨型のストーブが冬の間、焚かれてたいようなカフェでお世辞にも「お洒落な」という店ではなく、どちらかと言うと汚い感じの店でした。中に入ればコーヒーの香ばしい香りとタバコや葉巻の香りが入り乱れた一種独特な雰囲気をい醸し出し、古きよきアメリカをそのまま感じるようなカフェでした。場所的にはワシントン大学のすぐそばで、細かく言えばBrooklyn Ave.の特に学生寮の道を挟んだ反対側にあったので来る客は学生が多いのは事実ですが、行ってみると本当にあらゆる人達が来ていました。このラスト・イグズィットというカフェはコーヒーを飲みに来るというよりも同じ趣味の人達が集まってコーヒーを飲むと言う雰囲気の場所で、例えば、シアトルの中でも囲碁をする人達はこの場所を利用して楽しみ、シアトルのあらゆる場所から囲碁をしに集まっていましたし、チェスなどの楽しむ人も沢山いました。そんなグループがあちらこちらに集まり、ちょっと騒がしげなジャズが流れる中、一生懸命勉強にいそしむ学生達、はたまた何かのテーマにおけるディスカッションをする人達とさまざまな人達の集まる場所でした。

もっとツタが壁を張っていたようなイメージがあるんですが・・・

更に、月曜日の夜9時からは歌を披露したい人達が集まり、1人、1、2曲歌う場が持たれ、何をすることでなく、コーヒーを飲みながら生ギター演奏を楽しんだりするのが楽しみでした。年齢もさまざまでしたが、やはり学生などの多くがあつまるこの場所で一番喜ばれた歌というのがカントリーソングだったのは驚きました。私がシアトルにいた80年代後半はポップミュージックが非常に流行った時期であり若者達の多くはこのような音楽嗜好があるのだとばかり思っていたが、このカフェに来る人達が一番盛り上がるのはカントリーミュージックだったことは彼らにとってそれがやはり彼らの心に触れる何かを持っているものなのだと痛感させられた。これは多分日本人が演歌を聴いてその叙情性を感じるのと同様に、アメリカ人はカントリーソングを聞くことによって決して長くは無いがその歴史の中で培われたアメリカ人なりの叙情性に訴える何かがあるのだろうと思う。
この古めかしい、貧乏学生やちょっと変わった人達が集まるカフェがとても居心地がよくいつもエスプレッソやラテを飲みながら、このカフェご自慢のホットアップルパイとバニラアイスを食べながら取り留めの無い話に興じ、ギター一本で歌を歌ったり、詩を朗読したりという何か芸術的で、でもやはり庶民的なこの古き良きシアトルのカフェは20年経つ今でもカフェというとこの場所を思い出して、私のカフェのスタンダードはこの形、雰囲気でしかないといっても過言ではない。

ただ、そんなカフェもビルディングコード(建物安全基準)や衛生基準に触れたり、特に喫煙基準が厳しくなった90年以降、カフェのオーナーの死を境にその本来の姿を変え、消えていくこととなったらしい。今ではあのカフェの姿はもう無いそうだ。今はただそんなカフェに出会えただけ幸せと思うしかありません。

Saturday, October 27, 2007

リーヴェンワース / アメリカのドイツ村

シアトルから車で2時間位の山の中にリーヴェンワースというまるでおとぎ話に出てくるようなかわいい、美しいドイツ村があります。



シアトルから車でI-90という州をまたいで走る国道を東へ向かいそこの途中から北へちょっと北上するとその山間の美しい村にたどり着きます。その村自体の美しさもさることながら、シアトルからその村まで行く山間部の道路を走っているだけで心が安らぐ素晴らしい景色に出会えます。シアトルからのちょっとしたドライブに最適な観光スポットで、冬はスキーなども楽しめる場所です。
写真から見てもわかるようにヨーロッパ・ドイツの山間にある街並みそのままで、多くの観光客がその村を訪ねてきます。夏などは色々なお祭り等の催しがある程度の田舎の村ですが、アメリカ人ももともとヨーロッパからの移民ですから祖先が感じた街並みがDNAを通じて感じさせるものがあるのでしょうか。この村へ何度か足を運びましたが、いつでも観光客で賑わっていました。
1年を通して何度か行きましたが、一番良かったのは秋でした。秋と言っても晩秋と言う感じの頃です。ちょっと寒い季節にあの村を訪ね、沢山のお土産やさんがありますがそのその店をあちらこちら見ながらレストランで暖かい食事をしたりしてのんびり過ごしたりするのはとても落ち着きます。慣れない場所なのにこんなにリラックス出来ることはあまり無いと思います。今でも少し悔しく思うのが、いつもいっしょにあの村へ行くのが誰かの奥さん(学校の同級生ですよ!)だったので泊る事が無く、美味しいドイツビールを飲むことが出来ずに帰るしかなかった。ここからは想像になりますが、あの村で1泊どこかのロッジに宿をとり、ビールを飲んでソーセージやポテトを食べた後、あの美しい村をほろ酔い気分でロッジまで歩いて帰り、静かな部屋で何も考えずに翌朝までぐっすり寝られてらいいですね。
いつかシアトルへ行くことがあれば、必ず行って見たい場所のひとつです。皆さんもシアトルへ行くチャンスがあれば行ってみてください。絶対にあの村の虜になりますよ!

Saturday, October 13, 2007

ウッドランドパーク動物園

私の生活拠点だったユニヴァーシティーディストリクトから3、4Kmのところにあまりパッとしない動物園があった。名前はウッドランドパークズーと言いシアトルの住宅地にポツンと存在するような動物園だった。シアトルに来たときからそこに動物園があったのは知っていたが別段、パンダやエリマキトカゲなどの日本で流行った動物がいるわけでもないのであまり興味を持たなかった。
或る日、学校のみんなでその動物園へ行くことになった。動物園は動物を囲う柵もなく、何となく動物があまりよく見えないような印象が強くあまりパッとしない動物園だという印象だった。ただその時、昆虫とかが飼われているビルがあり、薄暗い館内をうろうろ歩いていると本当に真っ暗でガラス張りの中が全く見えない展示があった。あまりにも良く見えないのガラスに顔を思いっきり近づけてよーく目を凝らして見ると・・・・・
何と!!今まで見たことも無いものすごく大きな(多分10cm位)「ゴキブリ」だったのには驚いた。それを見てゾッとした瞬間、体中に鳥肌が立って今でもあの瞬間は忘れない。小さなゴキブリでも身の毛がよだつのにあんなに大きいとそのショックは計り知れない!!!今でも思い出すだけでも鳥肌が立ちます!あんなに顔を近づけなければ良かった!と今でも後悔するばかり。あのゴキブリの印象が大き過ぎたのもあの動物園の全体の印象につながったのかな???

しばらくて、学校の教科書を読んでいいると動物園の話が出てきた。その動物園はあらゆる部分で環境問題に取り組み、動物園のデザイン自体を出来る限り自然に近い形で動物を管理するという理念に基づいた動物園だと書かれていた。その文章を読み続けて最後までたどり着いたところでその動物園がシアトルの「ウッドランドパーク動物園」だと言うことがわかった。そう言われてみれば動物が何となく見難かったのはごく自然な形で動物を管理して見に来る人達に自然の中での動物達を見てもらおうという意図だったのをその本を読んで初めて理解した。もう少しその動物園の下調べをしてから見に行けばもっと違った形で楽しめたのにと、その日は一日中反省をした思い出がある。基本的に行き当たりばったりの性格がこのような後悔を引き起こし、反省するたびに直そうと思うのだがなかなか直らないのが個人個人の性格と言うものなのだろうか・・・・。

Saturday, September 29, 2007

ハンバーガー考

先日、知り合いとバーガーキングを食べながら昔話に花が咲いた。日本ではハンバーガーと言えばマクドナルドだが、アメリカではバーガーキングが代表格だった。その違いといえばアメリカ人曰く、マックは作り置きだが、バーガーキングは注文をとってから作り始めるので新鮮だ、と言っていた。それとバーガーキングの「ワーパー」はとても大きく、レタス、トマト、オニオンなどがどっさり入っていてまさしくアメリカ人好みだった。それに比べてマックは値段は安いがボリュームには欠ける。その辺がアメリカ人の支持を得た点ではないだろうか。ただ、バーガーキングは決して安く無かったので、その頃貧乏だった私にとってはあまり行くことはなかった。そんな話に興じているうちに、ワシントン大学の近くに思い出に残るハンバーガーショップがあったことを思い出した。
ユニバーシティーディストリクトのユニバーシティーウェイを北に進むとNE45th通りと交差する。この通りは東西に走る道としてはI-5と言うアメリカ大陸を南北に貫く片道5,6斜線の大きなフリーウェイを立体に交差する道のためかなり交通量の多い。
この45th通りを西へ進むとお店や酒場等が立ち並んでいたが、しばらく行くとまる映画「アメリカングラフィティー」に出てくるようなファーストフードスタンドがあった。駐車場は大きくその敷地の真ん中にガラス張りのショップが建ち、その中ではあらゆる人種の人達がハンバーガーをせっせと焼いている。ガラスの小窓から自分のオーダーを言って支払いを済ませると、あっという間に注文した品物が出てくる。このショップではチーズバーガーとチョコレートシェークを注文するのがある種「通(つう)」だとアメリカ人の友人から聞いたので幾たびにそのオーダーは同じだった。ハンバーガーはいくらだったか覚えていないが1ドル50セント位だったと思う。美味しいかというと決して美味しいとは思えないのだが、あの雰囲気の場所でチーズバーガーとシェイクを食べているだけでまるでアメリカ人っぽい自分に酔っていたのではないかと思う。あとその場所へはもちろん車でないといけない場所だった為に、当時車を所有していなかった私にとってはとても特別な場所であったことも確かだった。

今でもあのハンバーガーショップはあるのだろうか?サイパンで手軽にハンバーガーを食べると言ったらマクドナルド位しかないが、是非あの手のハンバーガーショップに登場して欲しい。ただ、今は車でしか移動しない生活をしているから毎日通ってしまうかもしれない!?

Saturday, September 22, 2007

ポートタウンゼント

「愛は遊び、と男は思った。愛は結婚、と女は信じた。」
もうこのフレーズがTVコマーシャルで流れていたのは25年前の私が多感(?)な青春を謳歌しているときだった。映画は好きだったがあまり見に行くことも無かったが、繰り返し放送されるこのキャッチコピーは気になっていた。そう、若き日のリチャード・ギアとデボラ・ウィンガー主演の「愛と青春の旅立ち」という映画のフレーズだ。結果的には映画館で見ることも無く、後にレンタルビデオで観たが内容的に感じるものがあったが、その映画の風景が青春映画というイメージとしては何となくうら寂しい映画だという印象だった。


それから5年後・・・・。

ある日、ワシントン大学のESL英語学校の本部となっていたLewis Hallの掲示板の壁にField Trip(いわゆる遠足)のサインアップシートが貼り出された。「ボーイング見学」「スノコルミー滝」「ポートタウンゼント」など3,4コースが設定されていた。どこへ行くか迷ったが、昔ながらの港町の街並みを見学しにシアトルの港からフェリーで行くということを聞いて「ポートタウンゼント」への遠足に参加することにした。
遠足の日は生憎というか、いつもどおりのどんよりした曇り空の寒い日だった。シアトルのフェリー乗場はダウンタウンのピュージェットサウンド(内海)側にあり、「ポートタウンゼント」はその内海の反対岸の内海の出口付近にある港町。フェリーは車を運ぶことの出来るカーフェリーで生活の足となる路線のようでデッキは車で一杯だった。フェリー乗場の近くにあった「Fish&Chips」という看板のお店で四角い紙のお皿に白身魚のフライとフライドポテトがどっさり乗ってタルタルソースがかかったファーストフードを食べながらフェリーに乗り込み目的地へと出発した。フェリーが出発すると曇り空の寒さの中をシアトルのダウンタウンの高層ビル街が次第に遠くになっていく光景は誰もがセンチメンタルになるらしく、遠足と言う割にはみんな静かに見つめていたのを覚えている。
フェリーが「ポートタウンゼント」の港に到着するとそこは1世紀タイムスリップしたようなうらびれたレンガ造りの街並みが広がっていた。その街並みをESLの教師と一緒に説明を受けながら歩き回っている時に1階が大きなガラス窓で薄暗い中にビリヤード台が見える赤レンガ造りのビルの前で立ち止まった。教師はこのビルは「An Offider and A Gentleman」という映画の撮影で使われた場所です、と説明したが全く何の映画かわからないでいた。他の学生から誰が主演だ?とか質問を聞いているうちにリチャードギア主演の映画だ聞いて、それが「愛と青春の旅立ち」のオリジナルタイトルだということがわかった。そうなるとどこの場面で???確かに士官学校に通うリチャード・ギアがデートの最中に地元の連中と喧嘩をする場面があったがまさしくその場所だった。それが私にとって初めての映画で観た場所と実際のロケーション現場がオーバーラップした不思議な経験だった。その後、士官学校の校舎で利用していた場所は確か公園として利用していたし、海沿いのモーテルはそのままモーテルとして営業していた。その港町全体が古き良き時代の趣を残しながらひっそりとたたずむ姿はとても印象的な町であった。多分、その町でランチも食べたと思うが、どうしても思い出せない。「ポートタウンゼント」の思い出は「愛と青春の旅立ち」そのものでしかなく、今でも忘れられない町のひとつである。

インターネットで調べてみたがその港町は今では観光に力を注ぎアートギャラリーなどを中心としたお洒落な町に変貌を遂げていると言う。いつになるかわからないが是非もう一度訪れたいと心から思う。

Saturday, September 15, 2007

キングドーム

アメリカでのスポーツ観戦の面白さはマリナースで教わった。
その年の6月からシアトルに住み始めて英語英語の毎日であまり出てあることも無く、学校の宿題とよくわからない英語でのテレビやラジオに囲まれて悶々と日々を送っていた。そんなある日、学校の日本人が声をかけてきて野球を見に行こうと誘われた。「あまり日本人どうして付き合って何になる・・・・」と考えてたところがあったが野球観戦というのはその時には、自分から進んで行くようなことも無いと思ったので英語学校の顔見知り2人と学校が終わってからのナイターへ行くことにした。



ユニヴァーシティーディストリクトからメトロ(2両編成のディーゼルと電気駆動のバス・・・地下鉄じゃない)に乗ってシアトルダウンタウンの南のはずれにあるコンクリートのむき出しと言う感じのあまりパッとしない野球場へ向かった。確かダウンタウンのどこかでバスを乗り換えてキングドームの近くまで行き、そこからテクテク歩いてキングドームへ向かった。ところでメトロというバスシステムだがこれがなかなか便利なバスだった。ある程度のところまではこのメトロを使って便利に行くことが出来る。乗車料金は確か1ドル位だったと思うが、目的地へ行くのに違う系統のルートへ乗り換えてが必要な場合は、最初に乗ったときにトランスファーチケットを運転手さんからもらっておく。そうするとどこかで乗り換えたときにトランスファーチケットでお金を払わずに乗換えが出来た。ただ距離がある程度あるようで乗り換えて長距離になる場合は追加で支払うこともあるらしい。チケットにエリアが指定されていてその指定エリア内での乗り降りが可能だと言うことだったのだろう。
メトロと言うバス自体非常にユニークだった。電気で走るにはもちろん日本で言うチンチン電車のようなシステムが必要なわけだが、その通りバスからバックトゥーザフューチャーにデロリアンに電線に引っ掛ける為の長いカギ状の先端が付いた棒がバスの屋根についてる。路線には電線が張り巡らされておりそこを流れる電気をカギ状の棒で電気を取って駆動している。面白いのはカーブとかで時々そのカギ状の部分が外れたりして運転手さんがそれをバスから降りて戻したりするのには流石に驚かされた。それとバスの中は広告も無く殺風景で初めて乗った時にはどうやって降りるのかもわからない程だった。ボタンも無ければ何もない状態でどうやって降りるのか???自分が次の停留所で降りたい場合、フレームの上のほうにぶら下がっているビニールで覆われたワイヤーを引っ張って運転手に降車を知らせるシステムだった。そんなシンプルさにとても驚いた事を覚えてる。
さて、バスを降りて「パイオニアスクエア」というシアトル発祥の地であるレンガ造りの洒落た街並みを通り過ぎ、キングドームまでようやくたどり着いた日本人留学生3名はドーム外にあるチケットブース前に立っていた。料金表を見上げみんな一致したのが「3階外野席 $3.50」だった。これは安い!!こんなに安くていいのだろうか!?と思うぐらい安くてみんな大はしゃぎだった。ただその場所へ行ってみてその安さを十分納得した。選手達は遥か彼方に見え、ものすごく高い。まるで超高層ビルから野球を見ているような気分だった。ただ、アメリカの生活をよく知っている人はご存知だと思うが、あの「タララ、ラッタラ~」というオルガン演奏の後の観客の盛り上がり方、なんとなくみんな子供っぽくていい感じだった。後で知ったのだが、あのその場その場で色々な音楽を入れるのはあの球場にオルガン演奏者がいてタイミングを見て演奏してるそうだ。球場内にはDomino Pizzaがあり、スライスピザとビールを買って野球観戦をする。残念ながらその当時のマリナースは弱小球団だったから外野席なんて誰もいないので売り子さんも売りに来ないが内野席だとビール、ホットドック、チップスなどを売りに来て野球の試合が進むに連れてビールを飲み試合以上に自分自身も盛り上がるあの野球観戦の虜になってしまった。それ以来、時々野球を観に行くことが増えた。プロ野球でなくプロバスケットボール(NBA)のシアトル・スーパーソニックスを観に行ったがあれはあれでまた観戦者の雰囲気が違う感じで、私にはのんびりしたキングドーム3階外野席での観戦が性に合っているようだった。
先日、久しぶりにシアトルでの思い出を書こうと思い立ち、シアトルのWebサイトを見ていたら2000年にキングドームが壊された事を知った。原因としては1994年に屋根の一部の崩落事故が起こり、改修作業中にクレーン事故で2名無くなったことが原因だそうだ。あのコンクリートの塊は爆破解体されたそうで、その後はシアトルシーホークスのホームグラウンドとして「クエストフィールド」が建ってられたそうだ。残念ながらまたシアトルに行った時にはあのキングドームはもうないというのはまるで思い出を一つ失ったような切ない気持ちになるのは私だけだろうか。

Tuesday, September 11, 2007

シアトルの夏

あんなに素敵な夏を過ごした事は今までになかった。

シアトルに6月3日に到着した時は既に夏の気候で毎日晴天が続き、さらに緯度が高い為に陽が長い。夏至の日でいうと日没が22時頃だったと思う。だから例え夜の8時だろうが、9時だろうが街は多くの人が行きかい、テニスをしたりスポーツをするのにも都合が良かった。ただその後知ったのだがアメリカではDaylight Saving timeと言って夏時間を採用していたので1時間分長かったことも影響してた。この夏時間(サマータイム)は6月1日~9月30日まで行われて日の出が早くなる北半球の夏の時期に1時間時計を早めることにより節電に貢献したりするのだが一番の目的は農業などの日中にしか出来ないことを前倒ししてやることが目的らしい。確かにそうすれば朝の涼しいうちに仕事も出来るし、何かと都合がいい。流石、アメリカはその辺の考え方が素晴らし(この頃は何かとアメリカに感心していた)。農業だけではなく工場なども実際は早めに仕事をスタートして早く仕事を終えて、午後の時間を有効に使うこともしていた。例えば、シアトルのある日本電子関係の工場は朝6時(これもちょっと早いけど)から操業が始まり午後3時には仕事が終了する。だから午後3時から十分遊ぶ時間がある。その時間で多く人が家の修理や芝刈り、テニスやウィンドサーフィンなどを楽しんでいた。朝が弱い人には酷な感じもするがあれはあれで1日が有効に使えるからいいと思う。朝6時から仕事が始まると思えば夜更かししたり、深酒する事もないから健康にもいいかもしれない。

さて、シアトルの夏のよさは陽が長いだけじゃない、その緯度の高さがやはり大きく影響している。シアトルは北緯47度付近に位置しており北海道の最北端と言われる宗谷岬でさえ北緯45度だからかなり北に位置していることがわかる。その北緯が避暑地のような素晴らしい夏をシアトルにもたらすのです。日差しは強く芝生の上や湖で遊んでいれば日焼けもしますが、基本的には涼しく、特に木陰に入ればかなり涼しかったのを覚えています。それとエアコンも無かったですね。アパートやシェアーハウス(学生達だけで1件家を借りて生活をする)などを転々としましたが、どこにもエアコンは無かったです。それだけ涼しい気候なのです。それと暑い夏と言えども海は冷たくては入れないと聞きました。実際、ビーチとかに行ったことは無かった。泳ぐと言えばその辺の湖。湖畔で日光浴したり泳いだり、ウィンドサーフィンをやったりして対岸へいったはいいが戻れなくて困ったことも今はいい思い出である。そんなシアトルでは木陰で本を読んで過ごしたり、自然の中でゆっくりと時間が経つのを感じながら過ごす、そんな素晴らしい夏だった。

この夏の良さをさらに思い知らされたのはその後1年間をシアトルで過ごしてよーく理解できた。8月を過ぎて9月に入るととたんに天候が崩れ、どんよりとした曇り空か雨の日が続いた。冬場は海洋性気候が影響してシアトル自体には雪が降ることは無く、たまたま何十年ぶりの大雪となった日には交通機関が麻痺して学校が急行になって朝からエスプレッソローマでラテを飲みながら雪の中を行きかう人々を見ながら1日を過ごした覚えがある。とにかく次の夏、つまり6月が車では曇り、霧雨、シトシト雨、濃霧というあらゆる雨の降り方を翌年の6月が来る9ヶ月間で学んだ。そんなジメジメ気候の9ヶ月間を過ごした後の6,7,8月の素晴らしいシアトルの夏はその前の9ヶ月があるからこそ更に素晴らしさをブーストアップするのです。これはシアトルに1年間を通した人だけが理解できる「シアトルの夏」なのです。

Thursday, August 2, 2007

ベルリンの壁

シアトルのダウンタウンでコンクリートの破片を広場に並べて何かを叫んでいるアメリカ人を見た。

今となってはどこだったのか良く覚えていないがあの頃(1988-89年頃)シアトル・ダウンタウンに正面がガラスで覆われたモール(Mall)の前の広場だった。その広場にはやはりガラスに覆われたコーヒースタンドがあったと記憶する。よくそこでラテ(Latte)をテイクアウトした覚えがある。それとシナモンロールが美味しかった覚えがある。
とにかく、その広場でコンクリートの破片を並べている。別段、綺麗でもなんでもない本当の破片。更にその破片にはペイントがところどころ見える。破片の一面だけがペイントされていて壊れた部分はただのコンクリートの壊れた面でしかなかった。はじめはそれが何か全く分からなかった。そのブロンドの青年が叫ぶ言葉を聞いてようやくそれが「ベルリンの壁」の破片だということが分かった。
ハッキリ言って驚いた。確かに毎日見るニュースとかでベルリンの壁が崩壊して西と東に分断されてた人々が行き交い世界の新たなるスタートを予感させる出来事だった。これから時代が変わっていく・・・社会主義の行き詰まりを象徴するような出来事だったと思う。だからといってそんなコンクリートの破片を持ってきて売るなんて!ベルリンの壁の破片を片手に人々に訴えかけている青年を見ながら、誰がこんな沢山のコンクリートの破片をスーツケースに詰めて持って帰ってくる奴がいるのだろうと想像していた。これが売れるという保障があれば確かにするだろう、でもどう考えたって買う奴はいないと思う。
私がまだ4歳位の頃に近くに住んでいた登山好きのお兄さんがその場所を引越してはなれる時に大切にしていた富士山で採取した溶岩の破片をティシュペーパーサイズの箱一杯にもらった。それがそのお兄さんにとっては物凄く意味があったと思うが、やはり私にとってはただの石でしかない。ただ折角だから、と思いながら今でもまだ実家の本棚の下にしまってある。ちょっと状況は違うが、もらうならベルリン壁の破片も持っていてもいいかと思うが、買うまでには思いはいかない。
ただその広場でひとしきり煙草を吸いながらラテを飲んでいると恐ろしいことに気がついた。
その辺にいる人たちがドンドンそのベルリンの壁の破片を買っていくんです。それも次から次へと人々が大小さまざまな破片を買って、その販売主の青年と握手を交わしている。その青年はまるで彼自身がベルリンで壁を叩き壊した本人のように、東西の冷戦を終結した英雄のようにいつしか振舞っていた。そんな光景を見ながらやはりアメリカにとってのソ連との冷戦というのは日本人の私が思っているそれとは一般市民レベルから全く違うということが分かった。

その頃、日本でもベルリンの壁の破片を売っている人がいたかどうか分からないが、私自身、そこに居合わせてベルリンの壁を買わないまでも、目の前でベルリンの壁の破片を見たことは歴史上の証人になりうるのだろうか?そんな思いをめぐらしていると、あの時に破片を買っておけばよかったと思いに駆られる。

Thursday, July 19, 2007

州立ワシントン大学

「州立ワシントン大学」がどんな学校か知っていて選んだ訳ではない。

たまたまアルバイト先のホテルの研修に来ていたロクサーヌがその学校に行っていて、ただ単にロクサーヌしかアメリカに知ってる人がいなかったから、通うことになっただけだった。理由がどうであれシアトルのこの大学に辿り着いたことは本当によかったと思っている。20年経った今でもそう思っている。

ワシントン大学のキャンパスマップはココ!!

この学校自体、西海岸で2番目に設立された大学で大学のキャンパスもワシントン湖の西側一帯を大学敷地だけで西海岸1番の広さを誇っているそうだ。それに加えて大学に隣接してユニバーシティー・ディストリクト(University District)という街まである。この街は学生達の住むアパートや映画館、レストランなどがあり特にユニバーシティーウェイ(University Way)という南北に走る道沿いはコーヒーショップやらレストランやら沢山のお店がひしめき合って金曜日、土曜日の夜は遅くまで人通りが多くにぎやかな通りでした。ワシントン大学のキャンパスは特に西海岸一番ということもありスケールが違い、沢山の校舎などが広大なキャンパスに立ち並び、地図がないと本当に歩き回れないし、大切な教室にさえ辿りつけない程広いキャンパスでした。校舎は古くから使われているレンガブロック造りで各校舎にはそれぞれ名前がつけられている。
キャンパス内で特徴的な場所と言えば、赤いレンガが敷き詰められた通称レッドスクエアという広場があり日本語直訳で「赤の広場」という場所がある。そこからワシントン湖へ向かってなだらかな段々のスロープの遥か向こうにはワシントン州が誇るレーニア山がそそり立っているのが望めるように計算されてキャンパスはデザインされていた。天気のいい日などはこの「赤の広場」の階段に座ってサンドイッチとペプシ、というようなまさしく映画で見たキャンパスを実体験したりした。その当時はまだソ連もあったからあの広場を「赤の広場」と風刺的に呼んだのだと思うが東西の壁が崩された今、どう呼ばれているか不明である。
キャンパスで目を引くのはブロックやレンガの建造物だけではない。広大なキャンパスには沢山の芝が敷き詰められたスペースや大きな木々が生い茂っている。東京近辺の大学では想像できないことを目にしたりする。木陰で勉強や読書をする学生達、木々を上ったり降りたり、芝を駆け回るリス達。学校初日のオリエンテーションではリスに餌をあげて噛まれたりすると病気が移る可能性があるのであげないように指導されてたので餌をあげることはなかったが、アメリカの学生達のように授業までの待ち時間を木陰で過ごし、その近くをリス達が走り回ったりしているだけで幸せな気持ちになった。

広大なキャンパスにツタが絡まるレンガ造りの校舎、自然いっぱいにリス達が木々を駆け回る。それだけでも十分に素晴らしさを感じていたが通っているうちにもっともっとこのキャンパスに驚く発見をした。ワシントン大学はシアトルの地元の人達からは「ハスキーズ」と呼ばれている。最初は何のことだかさっぱりわからなかったが、アメリカの大学はそれぞれ自分の学校のマスコットを決めていてワシントン大学はあのオオカミのような犬の「ハスキー犬」がマスコットだった。そのハスキーという名を冠したハスキースタジアムがこのキャンパスにあり驚かされてた。最初は地元のスタジアムかと思っていたら、その場所もまだキャンパス内で高くそびえる大きなスタジアムが大学の所有のものだったとはスケールの小さい日本から来た私には想像も及ばないことだった。

スケールばかりでなく、機能にしても驚かされた。始めの頃は利用しなかったので気が付かなかったが「赤の広場」の脇にUndergraduate Libraryと呼ばれる図書館があった。この図書館だが夜中の24時まで利用可能なのだ。当たり前といえば当たり前だが、そんな図書館は今までなかったし、代々木ゼミナールの自習室という参考書や傾向と対策などの書物を貸し出してくれる場所でさえ21時までしか開放していなかった。24時まで図書館が利用できる便利さは使った人でないとわからない。授業が終わってから夕食の時間などの調整をしてあわてて図書館を利用するのではなく、自分の時間を有意義に使いながらあせって調べ物をすることもなく余裕を持って勉強が出来ることがどんなに精神衛生上いいことか。あの時に感じたのはこの大学にいる限り勉強をする環境が整っているだけで勉強がはかどる、というかやる気にさせる。あの時ほど自分から進んで楽しんで勉強したことはなかった。
 
私の経験を読みながら「アメリカかぶれ」とか思っている人がいるかもしれないが、行ってみればよーくわかると思う。これは単なる「かぶれ」とかではなく学生が勉強しやすい環境で勉強をして将来的にそれが社会に役立つ研究に成果をあげることになればそれは人を救うことになるかもしれないし、国を救うことになるかもしれない。成績優秀な人を集めるのは重要かもしれないが、その人たちの才能を引き出せる学校であることはもっと大切だと痛感した。

Wednesday, July 18, 2007

アルカイビーチ

シアトルにはウェストシアトルというピュージェットサウンドという内海を挟んだ対岸の街がある。
このウエストシアトルにAlkai Beach(アルカイビーチ)という夜間デートスポットがある。この場所へは私の住んでいたユニヴァーシティーディストリクトからは車じゃないといけない場所だった。その当時車を持っていなかったので殆どの場合、誰かに連れて行ってもらったんだろう。ただそのビーチから対岸にあるダウンタウンシアトルの夜景は本当にすばらしいものだった。あの素晴らしい夜景となるのもシアトルのダウンタウンが斜面に築かれているので水平線の向こうに雛壇飾りのように建ち並ぶビル郡が見渡せるところにあの美しさがある。シアトルに住んでいた人なら必ずあの場所へ一度は行ったと思う。
このURLでどれだけ美しいか分かるので見てください。

(http://www.pbase.com/3f3nd1/image/74362812
/http://www.pbase.com/3f3nd1/image/77906822)

それほど素晴らしい場所だった。あのビーチに面したところにアパートがあったと記憶する。あのアパートに住んでいる人は幸せだ。あんな夜景を毎晩見れるなんて。あの夜景があれば、テレビも何も言葉さえいらないような気がする。
あれだけ美しい夜景はLAのグリフィス天文台や香港やましてや函館山の夜景とはちと違う。あの内海に反射するビル郡達の夜景というのはあまりない。そこにあのアルカイビーチの素晴らしさがあるのだと思う。

もし、あなたがシアトルに旅行するなら一晩でいいからレンタカーを借りてこの夜景を見に行って欲しい。多分、夜景を見に行くツアーなどはないと思うので思い切ってレンタカーをしてみてください。決して損しませんよ。それからダウンタウン・シアトルの内海側を走る国道99というハイウェイがありそこも走ってみてください。まるで映画の世界ですよ。

Saturday, July 14, 2007

Espresso Roma

アメリカ生活の中でこのコーヒーショップを忘れることは出来ない。
アメリカでの生活を始めた頃は、ちょうど学年が終了する6月だった為、ユニヴァーシティーディストリクトという州立ワシントン大学のキャンパスに隣接する学生街は夏期休暇で実家に戻ったり、旅行へ行ったり、アルバイトに明け暮れたりしている学生で街は学生数も多くなくひっそりとしてた。私は英語学校へ通っていたが、英語学校は日本人が多く、さらに高校を卒業してすぐの人などが多かったせいもあってあまり馴染めず、一人で時間を過ごすことが多かった。そんな時、私の住んでいたアパートのすぐ近くにあったのが「エスプレッソ・ローマ」というコーヒーショップだった。私は時間があればそこでラテ(エスプレッソにたっぷりのフォームミルクを混ぜた飲み物)を飲みながら過ごす日々が続いた。そのコーヒーショップは全くと言っていいほど洒落ておらず、なんとも殺風景なコーヒーショップであった。北から南に緩やかなスロープとなっているこの街のメインストリート・ユニヴァーシティーウェイに面して入り口があり、道沿いにテラスがあり2人掛け用のテーブルとイスが3つぐらい置かれていた。入り口から中へ入ると左手は南に面した大きな窓ガラスが奥のカウンターまで続き、天井が高く壁も床もコンクリートが打ちっぱなしの何なの飾りも無い、照明もあまりない店内だった。しばらくしてから壁に油絵とかが展示されてたと記憶する。南側に面したとてつもなく大きな窓ガラスはその店内の半分をを十分に明るくしていた。全体的にパッと見はまるでどこかビルの地下にある駐車場でコーヒーを飲んでいるような感じだった。さらにテーブルもイスもきちんと置かれておらず、なんとなくお客自体が好きな場所へ勝手に自分の好みの場所に置き、すべてが散乱していると言った方が適切かもしれないような配置だった。そんな店でも晴れた日に大きな南向きのガラス窓沿いでラテを飲みながら新聞を読んだりその通りを行きかう人達を観察していると本当に幸せな気分にしてくれた。
スタッフ達もカウンターでコーヒーやペストリーを販売した後は、ほっといてくれる店だった。そのスタッフ達の無関心さが逆に私を心地よくした。何時間そこで勉強していようが、新聞を読んでいようがほっといてくれる。アパートで一人勉強するのも悪くは無いが、やはりアメリカを肌で感じたいと思う欲求をそんな場所で過ごすだけで少しばかり満たしてくれた。またそのコーヒーショップのいいところは朝7時から夜11時までやっていることで自分の何時どんな時にでも利用できたことが良かった。特にアメリカ生活の始めの頃は思ったように英語も身につかない錯覚に陥ってかなりフラストレーションがたまる生活が続いた。そんな時に家にジッとしていると流石に滅入ることが多く、話さないまでも誰かと同一の空間を共有しているだけで安心したものだった。
ここので飲むラテは20オンスぐらいの厚手のガラスカップにラテがなみなみと注がれて出てくる。そのガラスのカップも綺麗な輝くようなガラスではなく表面が細かい傷に覆われたような、今考えるとどうかと思う程のものだったが、あの時はそんなことでさえアメリカの大雑把さ、ガサツさに感動していた。その大きなカップをゴトッとテーブルに置き、人の座っていないテーブルに置かれている黒いプラスチックの灰皿を目の前に置いて英語学校の宿題とか新聞を読みながらその辺にいる学生だかなんだかわからないアメリカ人に同化しようとしているだけでアメリカ生活という言葉が頭の中を駆け巡っていた。
あれから既に19年が経ち、このコーヒーショップも「Cafe on the Ave」というお洒落な食事なども出来るレストランになったことをインターネットを通じて知った。いつまでも残っていて欲しかったあのコーヒーショップ。もしこれからシアトルへ行くことがあったら是非一度立ち寄りたい。自分の目でどれだけの時間が過ぎたのかを実感できると思うから。

レストランの思い出 その1

留学を決めてシアトルの地に着いてまずは腹ごしらえ。空港に迎えに来てくれたロクサーヌとジャッキーの2人に連れられてアメリカらしいレストランに案内された。「Red Robin」というシアトルあたりじゃかなり有名なチェーン店らしい。典型的なアメリカン・レストラン要はデニーズ、すかいらーくのようなもの。まずは入ると何名か?タバコは吸うか?と一連の質問に答えて案内されたのはテラスにあるテーブルだった。席についてからタバコに火をつけて一息ついてるとウェトレスがにこやかにこちらのテーブルにやって来た。ウェイトレスが何かを言ってるけど、何を言っているのか聞き取れない。「えっ?」思わずロクサーヌを見ると、こんな英語もわらからないのか?という顔をしながら「ドリンク、ドリンク何飲む?」と日本語で聞かれた(情けない)。ただ情けないのはまだ続く、迷っている私に「Pop? Or what?」とロクサーヌに聞かれて心の中で「えっ?ドリンクじゃないの?ポップコーン?」と私はタバコをくわえる間もなくパニック状態。ジャッキーが「Coke?」と聞いてくれて「そうそう、それでOK」とジェスチャーで対応してその場をしのいだ。「Pop」とはコーラやペプシを代表する炭酸飲料のことでアメリカ人の俗語的な口語表現だったので私が分かる由も無い。
ただそのときに自分の中でハッとした。確かに日本でコカコーラの宣伝で「♪Coke Yes Coke!!」と言っていた・・・英語じゃ「コーラ」じゃ通用しないんだ!俺はそんなことも知らないでアメリカに来てしまった!!とショックが大きかった。そのレストランはワシントン大学界隈にあるただのレストランだったが、私にとってはそれ以上の意味をもつ場所だった。ドリンクがウェイトレスに運ばれてきて食事の注文。このレストランではハンバーガーが有名だとドリンクが運ばれてくる前に説明を受けていたのでハンバーガーを注文。このときに焼き方を聞かれて耳を疑った。ロクサーヌが焼き方をどうするか聞いてるよ、と言っている。ハンバーガーに焼き方も何もあったもんじゃない!あんなに薄っぺらいパティーをそんな起用に焼けるわけが無い。とりあえず「ミディアム」と答えて、ハンバーガーが運ばれてきてやっと理解した。そのハンバーガーのパティーはマクドナルドのパティーの3倍ぐらいある大きなパティーは十分にステーキぐらいの厚さがあり、その大きさに驚きながら通は「ミディアムレア」を注文するということも知った。それ以来、「Red Robin」へ行くとハンバーガーを注文して「ミディアムレア」と不吉な笑みを浮かべて注文をするようになった。
ただのレストラン・・・でも流石、アメリカ!!英語が思うように話せない、聞けない情けなさを感じつつもアメリカに来た!と初めて実感した思い出の場所にもなった。

Sunday, May 6, 2007

旅立ち

1988年6月アメリカ・ワシントン州シアトルへ向けて成田空港第一ターミナル・・・というよりその時は第二ターミナルはなかった・・・で一通りの手続きを進めていた。この旅行はは私には初めて国外への旅行だったのでかなり緊張していた。私は航空会社チェックインカウンターでもすべて本で読んだ規定どおりのプロセスでチェックインを終えた。飛行機に乗るのも、生まれてこのかた函館から羽田まで母親と旅行した時に乗っただけだったので空港ロビーのガラス窓の外に見えるジャンボ機の大きさが私に更なる緊張を与えた。それよりも何よりそのはじめての外国への旅行が1週間とかの観光旅行ではなく、1年間は滞在しようと考えていた留学だったというのは今考えるとちょっと無謀だったと思う。実際、その無謀さは当のアメリカについてから十分思い知らされた。

アメリカまでの飛行機はコンチネンタル航空のシアトル経由ダラス行き?だったような気がする。とにかく目的地は米国ワシントン州のシアトルという都市だった。理由は簡単で大学時代のアルバイト先に大学の研修の一環で来てたロクサーヌというワシントン大学の学生と知り合ったからだった。外国なんか一度も行ったことない自分が初めて生活をしに行くところに誰もいないところを選ばない辺りが、無謀と言えどもちょっと冷静な考えのもと決定されていることが分かる(笑)。今では到底考えられないが、その頃の飛行機は喫煙可能だったので驚いてしまう。当時、私は喫煙者だったので12時間も吸えないなんて到底考えられなかったのでチェックインの時に迷わず喫煙席をお願いしたくらいだった。ただその喫煙席というのがジャンボジェットのドアから入って遥かかなたの最後尾の部分が喫煙席だとは初めて国際線ジャンボジェットに乗る私にとって知る由もなかった。

長時間の旅行はさほど苦労はなかった。夜7、8時頃の出発だったので食事をして、ビール、ワインとこれも規則的に飲み映画を見ながらぐっすり寝てしまい、目が覚めたら朝食の時間だった。朝食を食べ終わって外を見ると緑色の大地に沢山の湖が見え始めた。「とうとう来た!」と叫びたい気持ちだった。大学4年の夏過ぎに内定してた会社を断ってアメリカ渡航を決めてから希望に約10ヶ月間、この日を待ちわびていた。

飛行機はSea-Takエアポートへ到着して前々から連絡を取り合っていた元研修生ロクサーヌが空港まで迎えに来ているはずだ。留学生の利用するF-1ビザだったので通常の観光客より多少時間がかかったものの、比較的やさしいイミグレーションの担当者に「ワシントン大学はいい大学だ!ハスキーズ!!」などといいながら難なく通り過ぎ、スーツケースをバゲージクレームから受け取り出口を出た。ハスキーズとはご存知の犬と狼の混血といわれるハスキー犬で州立ワシントン大学のマスコットであり、この大学の学生達はハスキーズと呼ばれていた。バゲージを受け取り出口から外に出たのはいいが、迎えに来ているはずのロクサーヌの顔を全く覚えておらず、誰が誰だかわからない。時間はドンドン過ぎほとんどの人が出てきて、その出口のそばで待っているのは女の子2人だけ。よーく見てみたけど覚えがない。特にもう片方の女の子はものすごくド派手な全くの東洋人。後からわかったのが日系ハワイアンの3世でした。とにかく人気もまばらで心細くなってきたし、思い切ってその女の子達に声をかけようやくロクサーヌと出会えて一安心した。これで会えなかったりしたら本当にジョー談にもならなかった。

あの頃を思い出すとすべてが行き当たりばったりの人生だったような気がする。何も悔やんだりはしていないがもう少し思慮深く生きていくべきだったとは思う・・・ただその時は、自分で思慮深いと思っていたのだからどうしようもない。