Saturday, November 29, 2008

西海岸の美術館めぐり

ビバリーヒルズというイメージがあるけどよーく調べてみると有名な美術館などがあるのには驚いた。学校のない夏休みにお金もなくどこへもいけない時があり、家でぶらぶらしているのを知ったLAで事業をしていたA子さんがロスアンジェルス近郊にある美術館の基本情報を収集する仕事をまわしてきた。私自身芸術には興味だけはあったので暇に任せて点在する美術館めぐりをしてみた。そうしてみたら広大な敷地を持ったすばらしい美術館が沢山あるのには驚いた。それもその美術館は誰か美術品を収集してた人が美術館として開館したという大金持ちの趣味で集めた美術品を展示しているという日本とはスケールの違う何かを感じた瞬間でもありました。

Photo by Lisa Chu
c) Lisa Chu

ロスアンジェルスというと輝く太陽、パームツリー、ビーチ、ハリウッド、
ポールゲッティー・ミュージアム(その当時はマリブのみ)
ハンティントン・ライブラリー
ロスアンジェルス・カウンティー・ミュージアム・オブ・アート
ノートン・サイモン・ミュージアム
ロスアンジェルス・ミュージアム・オブ・コンテンポラリー・アート

アメリカに住んでいると、この辺の美術館で期間限定で行っている展示会に関しては新聞の日曜版にその情報のすべてが掲載されているので日曜版を活用してその週の計画を立てるといっても過言ではありません。私の場合は、美術館めぐりもそうですが、新作映画の封切や各地で行っているイベントなどもこの日曜版を元に計画をしていました。ご存知の方も多いかと思いますが、アメリカの日曜日の新聞は電話帳ぐらい分厚い読み応えのあるものです。半分はストアーの広告ですが、そのほかにその地域で1週間あるイベント情報やセールのお知らせ、映画情報など盛りだくさんの情報を掲載した別冊があり、それを見れば何処で何があるかすぐにわかります。ですから日曜日の朝はこの盛りだくさん情報の新聞を買い、サンタモニカあたりのレストランに行って深いローストのコーヒーを飲みながら朝食をゆっくり食べて、その1週間をどう過ごすか、さらに次の週末の計画を立てたりするの常でした。
今から考えると、何と優雅な生活を送っていたことでしょうか!?アメリカに住んでいた時の時間の使い方は本当に余裕があり、今までの人生の中で精神的に非常に充実してた時期だったと思います。

そしてその週末には各美術館や博物館、さらにはロスアンジェルスからI-5(インターステイツ5号線)というフリーウェイで南に行くとラグーナビーチという場所があり、そのには数々のアートギャラリーがあり有名無名のアーティスト達の作品が販売されており週末は近郊都市から賑わっていました。ギャラリーを見て回り、疲れたらエスプレッソを飲みながらはるかかなたまで続く太平洋を眺めながらアメリカンアートの話を繰り広げたりするわけです。

あんな生活を再び送れるのは・・・・いつでしょうか??

Friday, June 20, 2008

ユニバーシティー・ディストリクト

まだ、アメリカに住み始めて間もない頃は何もすることがなかった。これは日本で思い描いていた夢とは大きくかけ離れた部分でどうしようもない思いをどこへぶつけることもできずにひたすら住んでいた「ユニバーシティー・ディストリクト」を歩き回る日々が続いた。
日本にいた時はアメリカに住めば陽気なアメリカ人の友達とカフェでお喋りをしたり、キャンパスの芝生の上で丸くなってテキストを膝の上に載せて様々な話題を話し合ったりという思いを描いていた。ただ、そんな思いも虚しく英語も大して話せない極東から来た一学生を相手にしてくれる人は誰もいないことを思い知らされた。それでもまだ平日は学校もあるし、それなりに話す相手もいたが、土日は一人ぼっちのことが多かった。家にいても面白くないし、とにかく外へ出た。外に出てボーッと立っているわけにも行かないのでその辺をグルグルと歩き回る。するとそれはそれで発見はあるもので気を紛らわせるには丁度良かった。
始めは大学周辺のお店が密集しているユニバーシティーウェイという通りを中心に散策していたが、この辺はお店とかレストランとかがメインで数ヵ月後にはその辺のレストランは一通り食べ歩き(ただ、安いレストランのみ)、一応その通りは制覇した。
その後、ユニバーシティーウェイに直角に交わるNE 45th St.という大通りを西へ向かう。この通りを西へ向かうとWoodland Park Zooがあるのだがその時はまだ知らなかった。この通りを西へテクテク歩いていくとI-5(Interstate 5)という西海岸を北から南へ貫くハイウェイと交差する。I-5をまたぐ様に45th St.は通っており、高架橋から見るダウンタウン・シアトルの眺めはなかなかのものだった。片側6斜線ぐらいあるI-5はやはりアメリカの車社会の象徴のように見えたし、それがダウンタウンの高層ビル街に続く光景はいつかアメリカ映画で見たものを思い起こさせた。あの光景を見ていると孤独でありながらそれでもまだ心を奮わせる何かをあの土地から感じていたような気がする。
その高架橋を南へ向かってI-5に沿って南に下ると「Gas Works Park」という場所に出る。ここは何の工場なのか不明だがガス工場?だったのだろうか・・・名前からすると(笑)。赤茶けて錆付いた施設が何となく芸術作品っぽい不思議な場所です。そこからのユニオン湖を手前にしたダウンタウンの眺めはシアトルらしい光景でアルカイビーチからのダウンタウンの眺めにも負けない場所だと思う。映画などでも利用されているが「The Fugitive」というニック・ノルティーとマーティンショートの主演の映画にこのガスパークが出てきます。いい映画なので見たことのない方はビデオ屋さんへ行って借りてください。邦題は「3人の逃亡者」です。

やはり人間はどこかへこもっていたり、ただ単に何かが起こるのを待っているのではなく自分から行動を起こすことが大切です。アメリカでの生活は夢破れて辛いことが多かったですが、その代わりに大切なことも沢山学んだ時期だったと、今は思えるようになって来ました。

Sunday, May 4, 2008

人種差別考

「人種差別」と聞いて日本人のあなたは何を連想するだろうか?
少なくとも私はアメリカに行くまで「白人と黒人」というイメージが強かったが、実際にアメリカへ行ってみると日本人だって、中国人だって、アジア圏の人種たちだって普通に差別されていた。日本にいると日本人が差別されているというような話はあえてしないから通常耳に入ってこないのだろうとその時理解できた。
最初に差別的な経験をしたのが渡米してすぐに黒人からラジカセを買った。その時に彼に小切手で支払いをした。もちろんその黒人君はそのチェックをもって銀行へ行き、換金する。通常は小切手ときちんとしたID(身分証明書)を出せば現金をくれるのに、銀行としては・・銀行員としてはかもしれない・・本当に私が彼にチェックを切ったのかを確認しにわざわざ電話してきた。行員は「本当に彼に小切手をきったのか?」と執拗に確認してくる。さほど遠くではないので銀行まで出向いてきちんと説明してようやく黒人君は現金を得ることができた。ほんの些細なことだったがアメリカ社会に根ざす複雑な問題が今でも息づいていることを確認した瞬間だった。
あの頃はまだ私も青かったから人種差別と聞くと「肌の色」という単純な発想しかできなかったが、本当はもっともっと奥の深いものだということが判った。アメリカは本当に人種の坩堝だから肌の色が違う人々、宗教の違う人々、思想の違う人々があの大国を形成している。それが原動力にも発想の幅広さなどいい点もあれば、統一性が保てないという致命的な点でもある。アメリカは人種的に物事をはっきりさせたがるが、人種の違いなども非常に明確に違いを指摘しあう。明らかに違うから違うといっているわけで、それが別段悪いことではない。が、しかしその人種により上下関係をつける事自体がよくない。白人だから偉いとか黒人だから言い仕事に就けないなんて誰も決められない。だが、米国に住むそれぞれの人達の心の中に何かしらのランク付けが出来てしまっていて、それを声に出して言ったりしてしまう。これが争いの素になる。昔はそれでも良しとされていたが、現代社会は建前社会でありそんな理屈が通る分けない。偉い人は口々に「みな平等だ」と叫ぶ。黒人でちょっと教養のある人なんかもしきりに「平等」などと主張するが、それも何となくパンチに欠ける感がある。中には白人の学者で「肯定主義」などを掲げる人がいる。「肯定主義」とは人種が違うのはその通りであり、それを受け入れた社会形成・秩序をしていこうという主張である。例えばあの有名なカリフォルニア大学バークレー校などはこの精神を取り入れ、米国の人種の割合で学生の入学を枠を決めたりした時期があった。例えば黒人人口が10%だったら入学する学生の10%を黒人とする。これを聞いたときには単純な私は全く何を言っているのか判らなかった。授業自体が英語でやっていたことも大きな理由ではあったが、コンセプトが全く理解できなかった。それ自体が人種差別の何者でもないと思われたからだ。このやり方において弊害として10%枠を人種で区切ってしまうとたとえ成績があまり優秀でなくても入学してしまい、大学全体のイメージダウンにつながり、更には米国の将来を脅かすことになりかねなかった。まったくあちらを立てればこちらが立たずという感がある。
一方、日本での人種差別は全く違った形で存在する。日本国は国自体が島国で単一民族で構成されており、他の国から海を渡ってやってきた者たちは「異邦人」で区別することが普通である。その区別(差別)をすること自体が悪いことでもなんでもなくごく当たり前なことだから外国から来た人たちを平気で区別して傷つけてしまう。今でもそうなのか知らないが、私が学生の時は同じ学生でも在日韓国人の人たちは学生定期の値段が私達とは違った。日本で生まれて親が韓国人で韓国籍というだけで定期券の料金が違うのは不自然である。同じ人間で同じ学生なら定期券の料金は一緒でいいじゃないか?と思わずにはいられない。でも日本人は区別することに全くといっていいほど無頓着で気にしないからそんなことが沢山ある。もしそれを違うと指摘するとこっちがおかしいと言われかねない。
最近は多くの外国人が日本で生活をする時代になっており比較的人種差別などという意識もできてきたのではないかと思うが、本質は変わっていない人が多い。日本にいる限り「差別」という意識をすることは難しい。国際的な地位を目指す日本は今後もっともっと勉強しなくてはいけないことが経済の法則以外にもあるのではないかと思う。

Saturday, March 8, 2008

放浪の日々(シアトル編)

アメリカ西海岸の大学は基本的に4学期制をとっている(いた?)。1年間を3ヶ月の4セッションを行い単位を取得していくシステムである。夏のセッション(6月ー8月)を取らずに夏休みとするのが普通だが勉強熱心な学生はこの夏セッションでも単位を取得して早めに学生生活を切り上げる人もいる。
日本から来る英語学校だけに参加する人たちはこの約3ヶ月の1セッションの授業を受け日本に帰っていく。つまり出入りがかなり頻繁である。私の場合は、ずーっとシアトルにいたが何故かクォーター制(4学期制)のように居場所を転々とした。
シアトルに到着した時は、まず友人の友人がハワイから来ていて夏の間、いないのでそのアパートにお世話になった。Carter Yokoyamaと言って日系ハワイアンでとても親切な人だった。彼のアパートはワシントン大学のキャンパスから2ブロック西の2階建てのアパートだった。小さい1ルームだったがすべて揃っていたこともありとても快適に過ごすことが出来た。1度、彼の友達が尋ねてきて、ドアを開けたら本当に真っ黒な黒人の大男で、彼も私を見て驚いたとは思うが私もアメリカに来たばかりでかなり真剣に驚いた(笑)。
彼のアパートにいる間じゅう次のアパート探しに精を出した。ただなかなか思ったようなアパートは見つからなかった。その時、一人で住むよりも現地の人や日本人以外の人と住んで出来るだけ英語を使う生活をしようと考えていたのでシェアードハウス(shared House)に絞って探した。まず、キャンパス内にあるブリテンボード(掲示板)などから募集している場所を探し、電話して出かけて部屋を見せてもらう。これはかなり辛い作業だった。車もないのでいつもテクテク歩いて探し、歩いている途中に「For Rent」なんてサインを見るとそこもすかさず飛び込みで見せてもらった。飛び込み営業マンの辛さを少し垣間見たような気がした。それと英語も大して話せないアジア人をルームメイトにしたくないというようなあからさまな人種差別を経験もした。あれはかなりショックだった。日本で人種差別というと白人が黒人というような概念があったが、実際は白人と有色人種というくくりだと言うことが良く分かった。そんなこんながあってようやく1ヶ月200ドルというシェアードハウスを見つけた。さほど大きな家ではなかったが、ヨーロッパ人や台湾人、アメリカ人とバラエティーに富んだ家で家主が一応学校の先生だったので学生だけで住んでいるような殺伐とした家ではなかったのですぐに決めてしまった。キャンパスからは歩いて15分位のところで「キャンディーケーン・レーン」というクリスマスデコレーションのステック状のアメのような形をした通りで、クリスマスになるとその通りのすべての家が電飾で家を飾り、シアトル中から多くの人が実に来ると言うちょっと洒落た住宅地ということをその年のクリスマスに知った。家自体も外壁などは赤レンガ作りで絵本の中の家みたいでした。
ググッてみたら住んでた家がが見つかりました
そのおとぎの家に半年位お世話になった頃、I-5というアメリカ西海岸を南北につなぐ高速道路の近くで丁度ユニオン湖のガスパーク近くのアパートで夜になるとシアトルのダウンタウンの夜景とI-5を走る車のイルミネーションが見える2ベットルームのアパートに引っ越すことになった。アメリカで色々なところに住んだ中であのアパートほど景色のいい部屋はなかった。
そんな素晴らしい景色のアパートを彼女が出来たタイミングで出ることになり、今度は彼女と1ベットのこじんまりしたアパートに引っ越しました。ただし彼女との生活も平均的な引越しのタイミングの3ヶ月で彼女の次の学校が他の州に決まった為、彼女を失ったのと同時にアパートも失って本当の放浪生活となってしまった。とにかく彼女を見送った後は友達のホームステイ先に10日間程転がり込むはめになった。ちょうど6月の新学期のタイミングでドミトリー(学生寮)の2人部屋で一人しか入ってない友人の所にまたしても転がり込み、3ヶ月間をあちらこちらを転々とした生活を送って、この時期に両親にすごく心配させて申し訳ない思いをしたのを覚えてます。こっちはこっちで毎日生活していくのが精一杯だし、うちの両親はアメリカで息子が音信不通になっているし・・・。あの頃は国際電話も信じられないくらい高くてそうそう出来ずに、手紙を頻繁に送るようにしていたが、生活に追われてそんな心の余裕もなく3ヶ月ぐらい手紙書かなかったことが原因。もちろんEメールもなかったしね。
その後は、あまりいいアパートがなく困ったが、友人の家を点々とする生活にも疲れ、一時本当に小さな古いアパートに住み込んだことがあった。アパートの大家さんが2ベットルームを貧乏学生に一部屋ずつ斡旋してたんですよね。一人でいた時もあるし、日本人のかなり年のいった女性が入ってきたこともあるし、色々な人が出入りしてそれはそれなりに楽しく生活していました。
今振り返っても恥ずかしい生活をしてたと思います。ただあの頃はそんなパワーがあったんだとも感心もしてしまうのは歳をとった証拠でしょうか。

Thursday, February 14, 2008

シアトルでのコンサート三昧

シアトルは大都会ではなく、地方都市でしかない。だからこそ住み心地がいいのかもしれない。ただその分、楽しみも年中そちらこちらにあるわけでもない。そんなシアトルで楽しんだのはコンサートだった。日本では外国人アーチストのコンサートはチケット自体が高額で、更に入手するのもなかなか難しく行く機会が無かったが、アメリカに来てコンサートのチケットがこんなにリーズナブルな料金だったのには驚いた。ローリングストーンズなどの超大物は流石に50-80ドル位だったが、普通のコンサートだと25-35ドル程度が中心だった。更に、LAなどの人口密集地域とは違いシアトルでのチケット入手は比較的簡単だった。後にLAに引っ越して判ったが、LAなどでは基本的にチケットマスターというコンサートチケット販売業者に電話で予約するのだが、人気アーチストの場合、いい席を入手することは出来なかった。

そんな好条件の中シアトルで見に行ったコンサートだけでも・・・

ボンジョビ
ビリージョエル
リチャードマークス
バーシア
ポイズン
ホワイトライオン
ブライアンアダムス

もうかなり忘れてしまったけど、思い出しただけでもこれらのコンサートへ行った。彼らは有名人だがシアトルのあちらこちらでノン・プロのバンド達のコンサートへもかなり足を運んだ。その中に後のニルバーナがいたのには驚いた。というのもシアトルセントラルカレッジに通ってた時にアマチュアバンドのドラマーでAlexという学生がいて彼のジャムをよく聞きに行ったり、一緒に酒を飲んだりしてたが、彼の友達というのがあのニルバーナでよく多くのバンドが出ていたがその中に彼等もいたのだと世の中の狭さを感じる。

シアトルに滞在中はアルバイトも出来るような状況ではなかったので学生だけしていたから時間には相当余裕があり、あの時ほど好きな音楽を好きなだけ聞くことが出来た幸せな時だった。シアトルの冷たい雨がシトシト降る9ヶ月間を楽しく過ごすにはコンサートや映画などの娯楽が欠かせないかったのも確かだ。