Sunday, March 20, 2011

これからのグローバリゼーション

社会や経済がどのように変化していくものか誰も想像がつかないが、今、日本社会はグローバル単位での動きに進んでいる。
私が卒業した1988年は今の日本経済からは想像がつかないほどの好景気で日本経済は『神話』伝説が語られるほどの時代であった。その時代日本固有の企業体制とも言える学校卒業後、一生同じ会社に勤め上げる家族的な会社、終身雇用が日本経済発展の秘訣であると全世界で騒がれた時代だった。それがバブル崩壊後一気にその様相を変えてしまった。
私は大学卒業後、そんな中でも今後の社会を生きていくためには英語がまず必要である、更に国際性の感覚を身につけるべきと遅ればせながら思い立ち獨協卒業後に一人渡米し、英語の勉強に励むのと同時に海外の人たちの日本人とは違った物の見方、習慣の違い等様々な事を学び、やはり彼らとコミュニケーションをとる事によって知り得る事が大きなそれ以降の糧となった。
アメリカの大学と日本の大学との大きな違いはそれぞれの社会を反映するビジネスに対する考え方だと思った。日本の場合、経済学なり、経営なり理論的な考察からスタートするが、アメリカの場合はまずは現在起こりうるビジネスモデルの考案やアイデアを今まで勉強した経済なり社会の仕組み、更には日常から分析したマーケティングをベースに取り組ませたりする。今でも忘れない最初の経営のクラスで二人一組になってキャンパス内で可能と思われるビジネスモデルを考案せよというプロジェクトがあった。例えばスナックスタンドの運営とか通学用のタクシーを運営するとか、自分が起業するとしたらまずはキャンパス内で何ができるか!?ということだった。通常90分のクラスでは収まらず翌週の授業に持ち越されたがそのテ―マ自体がより具体性を導き何を勉強したらよいかの詳細を生み出す。漠然とした理論で社会や経済を説明、理論づけるよりもより具体的なテーマを追求してそれに付帯する必要事項を勉強し、研究する方法がアメリカでの勉強の仕方だった。そのような発想で勉強を進めることができるのはやはりアメリカ自体が比較的簡単にビジネスを立ち上げることが可能で、後は本人のやる気次第でこのアメリカで行き抜き成功するかしないかが決まる。
さて、話を元に戻すが日本固有の終身雇用形態から一気に転職が当たり前、更には期間雇用促進など全く逆の方向へとその後雇用形態が変化し始め、「リストラ」などという言葉がどの媒体でも飛び交い、会社への忠誠心だけで生き延びていた人たちが実力主義へとシフトするなかで働き盛りだろうが、なんだろうが仕事ができない人間は冷たく切り捨てられる弱肉強食の世の中へ変貌を遂げる中、私も海外の現地企業で今まで自分が培った英語力とあらゆる国の人たちと友好的に関係を構築する技を駆使し生きて来た。今までは日本資本の企業というのは日本からの出向社員がマネージメント上層部を構成し現地で採用された人間はそれなりのレベルで留まるしかない時代だったが、日本経済のおかれたシビアな環境と日本本社に依存しない現地独立採算型のビジネスモデルがより日本から出向社員の配置より現地採用スタッフの育成という流れに変わり、現地社員が本社の世界戦略に参画するという会社全体がグローバリゼーションの流れに沿った経営構造に変革を遂げようとしている。
例えば我が社で言うと、今まではあらゆるビジネストランスアクションに関しては本社を介して行われることが基本とされていたが、現在では情報共有が根底にあるものの海外に散らばる在外グループ会社同士が直接ビジネスを行い、そのグループ会社である優位性を生かしビジネスを進めグローバリゼーションを推進し、現地主導という形態となっている。

企業のグローバリゼーションは決して各々の会社の方針でそうなっているわけではなく海外で営業展開してその経営安定の活路を見出す上で海外での慣習や事情に合わせた経営を進める必要があり、今以上に企業単位から個人単位への価値観の移行などが大きな要素にもなっている。日本から来た出向社員が日本の基準で在外の会社を運営していこうとした場合どうしても現地スタッフとの摩擦が発生してしまう。企業が高圧的に社員を操作できた時代では問題ないがそんな事は通用しない時代に入った今、海外であらゆる人種や習慣に柔軟に対応、思考ができる英語だけ話せるというだけでない本当の意味での「国際人」が今後世界の中の1つとして海外で営業展開するにしても、日本国内で外国人をマーケットにするにしてもいずれにせよ企業単位、個人単位での国際化がより必要とされる。大学での4年間というのはそういう意味では世界を感じる為にとてもいい時期だと思う。例え旅行でもいいし、出来たら1カ月のホームステイプログラムに参加するならなお更いいと思う。自分自身を日本以外のどこか世界の一部においてみて私たちの母国、日本を見つめ直してみるといいと思う。最近では幅広い層の人たちがこぞって英会話学校に通って多少なりとも英語に親しみをもつ人たちは増えてきてはいるものの、英語自体は単なるコミュニケーションの道具でしかなく、本当に必要なのはその道具を使って自分の為に何を得るかという事だと思う。インターネットやTV、雑誌などの媒体で世界のあらゆる情報が入って来て世界は狭まり、まるで自分が何でもよく知っているような気になっているかもしれないがそれはただ単に情報であり、それを自分自身の英語力、世界観によって自分の仕事や人生に活かせるように世界に飛び出して今後の日本経済を支える人材となって欲しい。

Saturday, January 29, 2011

後悔後に立たず

心構えはしていたつもりだが、先立って飲んでたビールの酔いも手伝って父の電話には非常に動揺した。あの気丈な父が電話の向こうで声を詰まられて話していたのにはショックだった。「お母さんが調子が悪そうで食事もしないし、みんなに会いたがってる」とたぶん言っていたのだと思う。冬の寒い家の中で父が電話を握りしめて話している様子が思い浮かんだ。季節はその人々の状況で大きく変わる。冬と聞くと済んだ青空と身の引き締まる寒さを想像もできるが老人二人が肩寄せ合っている冬の寒さは想像をはるかに上回って物悲しい想像をかきたてる。そんな冬という背景設定を思い浮かべながら母の状況を考えるといてもたってもいられない気持ちだった。すぐに翌朝の日本に気のフライトをインターネットで検索、予約を入れ準備をすぐさまに完了した。それからは翌日から数日間既に入っていた予定を確認しつつ同僚に仕事を振り分けて準備を整えた。
頭の中は母の具合はもちろんのこと、それを見守る父の精神的な重圧だった。両親が住む住宅供給公社の集合住宅に越して来て早35年が経つ。あの頃は比較的若い夫婦が住む集合住宅も今では知っている人たちも既に全戸数40戸の半数になり、そのほとんどが両親と同じ70歳以上の高齢者でこちらが何かを頼んで手伝ってもらうような状況ではない。そんな状況ではうちの両親が何か困ったことがあったとしても頼れる人はいないことになる。本当に家の近くに親戚でも住んでいればいいが、結局そんな都合のいい話もないし誰かが面倒をみる必要になる。改めてこのような現実に直面すると本当に日本における高齢化社会の問題点が今後大きく日本社会・経済を左右するように思える。高度成長時代多くの人たちが田舎を後にして都会に職を求めて出て来た。その人たちがマイホームと呼ばれる1戸建て、若しくは集合住宅、マンション等を購入して自分たちの場所を確保し子供を育てた人たちが現在は子供達も既に成人し、それぞれの家族をもって親とは離れた独自の生活をしている。それが現代のライフスタイルとみんなが錯覚してその方向へ進んできたが、やはり何かに支障が出てきているような気がする。人と人とのつながりが薄れ、頼る人がいなくなり、次第に孤立していく。それにより現在の社会では高齢者たちが寂しく生活をし、ひどい時には孤独に一人アパートやマンションの一室で死んでいく。こんな状況を見ているとやりきれない想いで一杯になる。
自分自身も自分は自分、親は親と考えていたが、やはり何かが違うと気が付いた。うちの家族はキリスト教で家族の大切さ等を口にする。特に私の妻はフィリピン人で私から見ると異常と思えるぐらい家族本位の価値観をもっている。ただ、その家族本位の価値観はそれはまるで昭和初期までの日本の家族そのものである。今回、現在の仕事も辞め親の為に同居を決意したのは一般的には無謀であり子供達にとって貧乏な生活を強いることになり親としては何んとも心苦しいところはあるが、このことをが彼らの人間としての生き方の一つの糧となることは確かだと思う。日頃、子供達には人の痛みを理解できる人間になって欲しいと思っているが、年老いた祖父や祖母、親を思いやる気持ちを持ってほしいと切に願う。
私自身ももう少し早く親の為に帰国すればよかったと思う。何かあったらすぐに帰国してと常々思っていたがやはりそれではすべてが後手後手に回って遅すぎた。ただ、今は早く帰国して両親と毎日顔を合わせて話をしたり、食事をしたりしたいと思うばかりです。