Sunday, May 4, 2008

人種差別考

「人種差別」と聞いて日本人のあなたは何を連想するだろうか?
少なくとも私はアメリカに行くまで「白人と黒人」というイメージが強かったが、実際にアメリカへ行ってみると日本人だって、中国人だって、アジア圏の人種たちだって普通に差別されていた。日本にいると日本人が差別されているというような話はあえてしないから通常耳に入ってこないのだろうとその時理解できた。
最初に差別的な経験をしたのが渡米してすぐに黒人からラジカセを買った。その時に彼に小切手で支払いをした。もちろんその黒人君はそのチェックをもって銀行へ行き、換金する。通常は小切手ときちんとしたID(身分証明書)を出せば現金をくれるのに、銀行としては・・銀行員としてはかもしれない・・本当に私が彼にチェックを切ったのかを確認しにわざわざ電話してきた。行員は「本当に彼に小切手をきったのか?」と執拗に確認してくる。さほど遠くではないので銀行まで出向いてきちんと説明してようやく黒人君は現金を得ることができた。ほんの些細なことだったがアメリカ社会に根ざす複雑な問題が今でも息づいていることを確認した瞬間だった。
あの頃はまだ私も青かったから人種差別と聞くと「肌の色」という単純な発想しかできなかったが、本当はもっともっと奥の深いものだということが判った。アメリカは本当に人種の坩堝だから肌の色が違う人々、宗教の違う人々、思想の違う人々があの大国を形成している。それが原動力にも発想の幅広さなどいい点もあれば、統一性が保てないという致命的な点でもある。アメリカは人種的に物事をはっきりさせたがるが、人種の違いなども非常に明確に違いを指摘しあう。明らかに違うから違うといっているわけで、それが別段悪いことではない。が、しかしその人種により上下関係をつける事自体がよくない。白人だから偉いとか黒人だから言い仕事に就けないなんて誰も決められない。だが、米国に住むそれぞれの人達の心の中に何かしらのランク付けが出来てしまっていて、それを声に出して言ったりしてしまう。これが争いの素になる。昔はそれでも良しとされていたが、現代社会は建前社会でありそんな理屈が通る分けない。偉い人は口々に「みな平等だ」と叫ぶ。黒人でちょっと教養のある人なんかもしきりに「平等」などと主張するが、それも何となくパンチに欠ける感がある。中には白人の学者で「肯定主義」などを掲げる人がいる。「肯定主義」とは人種が違うのはその通りであり、それを受け入れた社会形成・秩序をしていこうという主張である。例えばあの有名なカリフォルニア大学バークレー校などはこの精神を取り入れ、米国の人種の割合で学生の入学を枠を決めたりした時期があった。例えば黒人人口が10%だったら入学する学生の10%を黒人とする。これを聞いたときには単純な私は全く何を言っているのか判らなかった。授業自体が英語でやっていたことも大きな理由ではあったが、コンセプトが全く理解できなかった。それ自体が人種差別の何者でもないと思われたからだ。このやり方において弊害として10%枠を人種で区切ってしまうとたとえ成績があまり優秀でなくても入学してしまい、大学全体のイメージダウンにつながり、更には米国の将来を脅かすことになりかねなかった。まったくあちらを立てればこちらが立たずという感がある。
一方、日本での人種差別は全く違った形で存在する。日本国は国自体が島国で単一民族で構成されており、他の国から海を渡ってやってきた者たちは「異邦人」で区別することが普通である。その区別(差別)をすること自体が悪いことでもなんでもなくごく当たり前なことだから外国から来た人たちを平気で区別して傷つけてしまう。今でもそうなのか知らないが、私が学生の時は同じ学生でも在日韓国人の人たちは学生定期の値段が私達とは違った。日本で生まれて親が韓国人で韓国籍というだけで定期券の料金が違うのは不自然である。同じ人間で同じ学生なら定期券の料金は一緒でいいじゃないか?と思わずにはいられない。でも日本人は区別することに全くといっていいほど無頓着で気にしないからそんなことが沢山ある。もしそれを違うと指摘するとこっちがおかしいと言われかねない。
最近は多くの外国人が日本で生活をする時代になっており比較的人種差別などという意識もできてきたのではないかと思うが、本質は変わっていない人が多い。日本にいる限り「差別」という意識をすることは難しい。国際的な地位を目指す日本は今後もっともっと勉強しなくてはいけないことが経済の法則以外にもあるのではないかと思う。